2010年11月20日土曜日

竹森俊平「漂流を始める世界経済」(Voice12月号所収)を読む

早月刊誌は12月号が刊行される状況となった。過ぎ行く月日の速度が増しているという思いが募る今日この頃。さて、2010年の日本経済も様々なことがあったわけだが、2011年に向けて現代の課題・視点ともいえる話題をどう見たらよいのだろうか。Voice12月号の特集「激突対論!2011年の日本経済」は、対論という形を取りながら同じテーマに即していくつかの視点を提供してくれる。既に内容はご存知の方が多いと思うので、感想を混ぜながら簡単にまとめておきたい。まずは竹森俊平氏の論説「漂流を始める世界経済」から見ていこう。

竹森氏の見立ては、次のようなものだ。まずユーロ圏。今年の半ばあたりからPIIGS(ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペイン)の一国、ギリシャの債務危機という形で表面化したが、ユーロ圏の危機が完全に終わったわけではない。危機は先送りされたのであり、2011年にはアイルランド政府が国債の借り換えを迫られることから生じる危機、2012年はギリシャが債務の減免を要求することにより生じる危機である。そしてPIIGS政府は急進的な緊縮財政を打ち出している。そしてドイツやフランス、オランダ、イギリスといった諸国も財政緊縮策を打ち出す(している)。ECBも例外ではない。この意味で欧州発のリスクはありえる。ただ財政再建路線を規定する経済の風向きが又変われば、景気刺激策を発動するだろうというものだ。では、問題はどこなのか。竹森氏の見立ては米国が二番底の懸念を最も秘めているということだ。理由としては、財政出動に伴うビルトインスタビライザーが機能不十分であること、オバマ政権が行った巨額財政政策が今年後半からほぼ効力を持ちえなくなること、ブッシュ前政権が行った所得減税が今年末で終了すること、といったものが挙げられる。

自分は今年前半にはオバマが打ち出した経済対策の追加策が何らかの形で出されるのではないかと思っていた。なぜかといえば、オバマの経済対策は今年前半に最高潮を向かえ、その後は大きく減少することが明らかだったが、未だ経済の回復は不十分であったためだ。しかし欧米諸国としてみたとき、株価、生産といった分野の回復度合いが(緩慢とはいえ)最も力強いのは米国であることには留意しておくべきだ。この背景には日頃脚光を浴びがちな金融政策に加えて財政政策もある程度の影響を及ぼしているのではないかと思う。結局、失業率の高止まりが続く中で、財政政策パート2は発動されていない。QE2が話題になる一方で、QE2の効果に否定的な経済学者・エコノミストがFRBバーナンキ総裁に質問状を送ったことが話題になったが、総需要の停滞が明白な中でなぜ財政政策が発動されないのか。

その答えは「政治」だと竹森氏は言う。周知の通り、民主党は中間選挙で大敗し、共和党の議員が多数の議席を獲得した。彼等共和党議員の経済思想が問題ということだ。共和党への支持は国民の意思でもある。「政府の肥大化は悪」とする国民の意思だ。だが、竹森氏が言うとおり、大規模な財政政策と金融政策が無効だったということではない。仮にこれらの政策を行わなかったら、米国は今の経済状況を維持しておらず、世界金融危機は最悪の局面に向かっただろう。だが、高止まりが続く失業率や緩慢な回復に苦しむ人々にとってはその事実が届かない。

竹森氏は、当初の危機が大恐慌ほど酷くはならないとみなされた根拠として二つの点を挙げる。一つは現代においてはケインズ的な景気対策の必要性が認識されているため、失敗は繰り返さないであろうということ、もう一つ、保護貿易戦争は発生しないであろうということだ。この二つの点が生じるか否かが、来年の世界経済の先行きを占うという意味で重要な視点であろう。

そして更に付け加えると、財政赤字が累積する局面で、更なる財政出動が求められる場合に、先進各国の政府がどのような対策を行うのか、何もしないのか、はたまた増税を行うのか。過去の経験では、以上の局面では財政政策と金融政策の一体化が必要だと告げている。そしてラインハートとロゴフの研究からは、債務負担の悪化が深刻化するのは、債務負担を恐れて経済政策を怠った結果としての低成長に基づくとの結果が得られている。このような知見がどこまで生かされるのか、果たしてアクセルを踏み込む勇気が政策当局にあるのだろうか。更に世界各国で明らかになってきている債務悪化の特徴は、新興国で以前話題になった対外債務ではなく対内債務の拡大であるという点は新しい傾向かもしれない。債務負担が拡大する局面で何をするかといった議論が来年は更に本格化するだろう。先進国の経済政策は加熱気味の新興国の政策対応と互いにリンクしながら、国際機関等の役割や規制・政策の見直しといった議論の深化にもつながるはずだ。竹森氏が言うとおり、2011年は世界的に政治の季節になるのではと思われる。

2010年11月19日金曜日

飯田泰之『ゼロから学ぶ経済政策』、日本経済新聞社編『政権』


まずは飯田さんの書籍。ご恵投頂きありがとうございました。既に事務家稼業さんの書評がありますので屋上屋を重ねるのは無粋な話ではありますが、飯田節全開の良書です。なぜ経済政策が必要なのかという目的を幸福と絡めて論じつつ、手段としての「政策の三本柱」足る成長政策、安定化政策、所得再分配政策について論じていくというスタイルは極めて王道だと思います。経済政策に関する議論の混迷の大部分は(プロもアマも含めて)この種の混乱から生じる所が大でしょう。コンパクトに必要な知識を短期間で得ることができる、まさに新書の醍醐味だと感じました。
個別の話題にもっと深入りしたい方は、著者があとがきで語るように『ゼミナール経済政策入門』に進まれれば良いでしょう。海外の政策事例との比較に基づいて考えたい方は個別の本に当たられれば良いでしょう。この本が訴えているのは、個別具体的な政策の話を考える時の骨組みの重要性とその理論であって、枝葉ではないということに目配りすべきだと感じます。



 次の本は日本経済新聞社編の『政権』。2009年の8月30日の政権交代が遠い過去のように感じる昨今の情勢ですが、本書は日経新聞で連載されていた「政権」を書籍化したもの。
政治家が何を見ていたのか、政局の動き、日々生じる現象といった点をざっと振り返り、個別事象を深堀するきっかけという意味でも良い本ですね。


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牧野邦昭『戦時下の経済学者』を読む。(その1)

 本書は、第一次大戦及び第二次大戦における「総力戦」に直面した日本の経済学者たちの行動や言説について扱っている。本書の着眼点として面白いのが、本書が通常の経済学史や経済思想史といった体裁を目指すのではなく、「経済学の社会史」を目指すという視点だろう。つまり、個々の経済学者の思想や行動が、現在の視点からみて当時の社会や経済学の動きの中でどのような役割を果たしており、最終的にはどのような形で総力戦体制に取り込まれていったのかという視点である。着眼点の面白さとともに、本書の試みは個人的には成功していると思う。
  本書ではこの視点が、第一次大戦下における河上肇の反応と思想について、陸軍及び海軍の経済調査とその利用、日中戦争以降の経済新体制を巡る論争、思想対策の手段としての経済学と近代経済学の成立・経済学の制度化、そして高橋亀吉と第二次大戦という5つの論点を通じて描かれる。まずは本書の第二章までの内容についてまとめてみよう。

1.第一次大戦下における河上肇の反応と思想について
本書でまず語られるのが、第一次大戦における河上肇の反応である。河上の見る所では、ドイツがイギリスにより海上封鎖を受けながら戦いを続行できたのは、一切の奢侈を廃止したためであった。これは河上の年来の持論でもある「奢侈品への需要が「資本の無駄遣い」に繋がる」という主張である。
資本蓄積が不十分な日本が、西欧列強諸国と伍していくには、奢侈品への需要を必需財への投資に回すことで貧乏を無くし、成長力を高めることが必要となる。このための方策として河上は、国民の精神の改造(利己主義から利他主義)といった人道主義的発想からの社会変革と、社会主義的な組織改造、つまり生産権を天皇に奉還し「事業的資本家」が「国家直属の官吏」となることで国民が心を一つにして「国家社会」のために働き、分に応じて給与を得て貧困線以上の生活水準を維持するというもの、の二つを指摘する。社会主義的な組織改造とは、戦時下の総力戦体制を平時の経済体制に適用することを意味し、そして「国家社会主義」の発露は、河上の持つナショナリストとしての側面を表したものでもあった。

2.陸軍及び海軍の経済調査とその利用
そして第一次大戦に衝撃を受けたのは、河上肇だけではない。日本の陸軍においても第一次大戦はこれまでの戦争とは大きく異なるものとして受け止められた。国家の全てを戦争に向けさせる総力戦では、膨大な軍需や民需を支えるための経済力(生産力)を拡充することが必要となる。来るべき総力戦に備えて陸軍では経済学を分かる人材を要請する必要が生じるが、秋丸次朗や池田純久といった人々は、陸軍秋丸機関での分析や『国防の本記と其強化の提唱』といった形で、影響を与えていくことになる。
本書によれば、陸軍秋丸機関の設立は昭和14年のノモンハン事件での敗戦が直接の契機であり、当初の意図は「石井細菌部隊」に匹敵する「経済謀略機関」を作ることであった。秋丸機関に協力した有沢広巳、中山伊知郎ら経済学者の出した結論は、「英米との戦争は短期ならギリギリ可能だが、長期戦は困難で、英米に依存する日本が英米と対立することは経済的破綻をもたらす」というものであった。だが、この結論は陸軍側にとっては既知であり、寧ろ限界を認識した上で米国経済の弱点を考察することが経済学者には求められていたのである。そして、秋丸機関の研究成果は戦争遂行上の戦術的な問題として利用され、参加した学者もそれに媚びて、英米の経済力も「突き崩せないことはあるまい」という視点を補強するものとして利用された。
海軍においても陸軍と同様の動きはあった。秋丸機関や海軍のブレーン・トラストの活動は、当時の代表的な経済学者達を総動員したものであり、経済学者の大半は何らかの形で戦争に関わっていた。先述したように、経済学者の出した結論は陸軍にとっては既知であり、戦争目的の前に都合よく利用された側面がある。ただし一方で有沢や中山の経験は、戦後の「傾斜生産方式」や産業政策的な発想という形で受け継がれていくことになるのである。

3.「経済新体制論」を巡って
三番目の論点が、経済新体制を巡る論争についてだ。当時様々な「経済新体制論」が登場したが、問題は、それらの理論的な背景が顧みられることなく、「革新」か「現状維持」かを巡る政治的・イデオロギー的争いにより、真に望ましい経済体制を巡る議論が不可能になったことである。
経済新体制論としてまず取り上げられるのが笠信太郎『日本経済の再編成』だが、これは昭和研究会が1939年に作成した「日本経済再編成試案」が基となっている。笠は、企業の目的を利潤本位から生産本位に変更させ、当時のインフレを緩和するために公定価格を維持して、利潤率の統制、資本と経営の分離、技術の全面的公開、需給の自主的統制が必要だと訴えた。
次に取り上げられるのが柴田敬の日本経済革新案である。日本経済革新案は柴田自身の独占資本主義に関する理論的研究に、作田荘一の国家論及び満州国の統制経済の体験が加わったもの、というのが本書の整理だろう。ケインズ『一般理論』における柴田の認識に基づけばマクロ経済政策の鍵は金融政策である。しかし河上肇『貧乏物語』の視点に影響を受けた柴田の問題意識-独占資本主義の進行による一般利潤率の低下という日本の現実-を踏まえれば、投資は増加しないため金融政策による利子率低下は景気対策として無効となる。期待利潤率の低下による通貨供給の無効性といった独占資本主義の弊害が、日本経済を動脈効果に陥らせ、生産活動の萎縮と失業の増大を伴いつつ、社会不安が拡大する。更に独占資本主義は植民地を求めて国際的緊張関係を高めていき、これらが因果の双方に作用して日本経済を停滞させるのである。以上のような柴田の認識からすれば、資本主義体制の変革の必要性を柴田が主張するのもやむを得ないことなのだろう。
以上のような笠や柴田の経済新体制の必要性に関する主張に反対の論陣を張ったのが、山本勝市である。山本は柴田と同様、河上肇の『貧乏物語』に大きく影響されるが、人為的に秩序を作り経済を管理しようとする社会主義については懐疑的であった。それは山本の「巨大な社会」についての議論にもうかがえる。つまり、「巨大な社会」とは現代社会が原始共産体のような「小さな社会」とは異なっているため、社会主義は実行不可能というものである。山本の議論は戦後ハイエクが展開した「グレートソサエティ」論を先取りしたものと言えるが、河上は山本の批判には直接答えることはなかった。
山本は河上の「奢侈品の廃止により生じた富者の余裕資金を利用することで、生産必需品を安価かつ大量に供給することが可能になる」といった議論には同意していた。しかし、社会変革に関する思想という意味では再び両者の考え方は異なってくる。河上は第一次大戦という総力戦を参考にしながら経済組織改造と人心改造の二頭立てで社会を変えることを考えたが、山本は先に見たように社会主義的な視点からの経済組織改造を否定した。一方で山本は河上と同じく人身改造により「皇国の隆昌という見地から価値判断がなされた需要」を行うことを主張する。つまり、山本の主張は『貧乏物語』の一バージョンなのである。
「経済新体制論」を巡る論者のその後はどうなったか。山本の経済新体制論批判は財界や鳩山一郎といった政党政治家、観念右翼に影響を与えていき、山本の論文は各方面に配布され経済新体制論批判に用いられるようになる。笠はこうした批判・攻撃から逃れるためにヨーロッパ特派員となり日本をはなれ、経済新体制確立要綱には利潤原理を認めることが明記された。
一方で新体制推進側からの反撃により、山本の著作『計画経済批判』は勧告絶版となる。その後山本は文部省国民精神文化研究所の退職を余儀なくされ、明朗会や陸軍参謀本部部員らとともに条件付講和に持ち込もうとする終戦工作を行うことになる。終戦後、山本は鳩山一郎に誘われて政治家の道を歩む。吉田・鳩山抗争の際に、山本は石橋湛山の政治的同志として行動し、ともに経済政策案の検討を行っている。この経済政策案は自由主義的なものであった。
最後に柴田についてみよう。柴田は公職追放後、教職に復帰したが、政治に関与することはなかった。戦後には、現代の環境問題の先駆けとなる着想を理論化することに力を注いでいる。
さて、ここまで読み進めてみて自分が感じた点を一言で述べるとすれば、河上肇の影響力の大きさがこれほどのものだったのかということだ。「総力戦」の重視と「資本蓄積が他の一等国と比較して不十分である」という認識がもたらした影響については、例えば対外進出の必要性への認識といった視点や、旧平価での金本位制維持の背景にあったと思われる国際金融資本体制の重視といった視点にも影響したのだろう。
いわゆる近代経済学者の役割はどうだったのか、経済学者の「思想」が当時の社会の中でどのように作用したのか、という本書の残りの論点については次回以降でまとめてみよう。

2010年11月18日木曜日

森信茂樹『日本の税制 何が問題か』、石橋湛山著作集3・4、ハジュン・チャン『世界経済を破綻させる23の嘘』

今日も本屋にていくつか本を買い込み。

一冊目は森信先生の『日本の税制 何が問題か』。少し前の本ですが、近所の本屋では全く入荷しておらず困っていた訳です。書評が出ましたので一冊入荷した分をゲット。内容は書名にもあるとおり、日本の税制について細かく解説しつつ、所得税、法人税、相続税、消費税、地方税という形で現状と課題を考察したものと思量。これは勉強になりそう。



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二冊目及び三冊目は石橋湛山著作集の3及び4。東洋経済の115周年記念出版ということで石橋湛山全集が、全15巻及び補巻の1冊を加えた全16巻という形で復刊が始まったわけですが、当然ながら全巻手に入れることは難しいので、既読の著作集1巻及び2巻の残りの部分を購入しようということで。著作集3は「大日本主義との闘争」、著作集4は「改造は心から」という題名が付されており、政治・外交、文芸・社会・人物論といった内容になっています。日付を見ましたら、全集の復刊に合わせて著作集も二刷となっている由、古本よりも新刊本が良いという方で著作集をお求めの方は買いではないでしょうか。これを機に著作集は全て読破したいところです。

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そして最後の一冊。近所の本屋で復刊された高橋亀吉『大正昭和財界変動史』がないかなぁ・・と思いつつあれこれとブラブラしたのですが、その際に偶々手に取ったのがハジュン・チャン(Ha-Joon Chang)『世界経済を破綻させる23の嘘』。タイトルが刺激的な風味なので思わず手にとってしまったのですが、中身も大層刺激的。異論もいくつもありますし、少々劇薬の面持ちなので、胃腸への負担を和らげるために読了後何か書きたいなぁ・・と感じた次第。スティグリッツは賛意を、イースタリーは批判を、といえば大体の内容はお察しがつく方も居るのではないかと思います。


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そういえば、This time is differentとか、Fault Linesの邦訳版はまだでないのかなぁ。記憶も薄れてきたしそろそろ再読したいと思うこの頃。

リチャード・J・スメサースト『高橋是清 日本のケインズ-その生涯と思想』を読む(その3)

 (その3)では、(その1)及び(その2)で宿題となっていた二つの疑問、つまり高橋の財政政策と軍国主義との関係について、及び、なぜ高橋は時局匡救事業を1934年に終了させてしまったのかという点についての著者の議論を敷衍しつつ、感想を述べたい。

4.高橋の政策が軍国主義の台頭に与えた役割
(1)既存の4つの解釈から
 高橋が行った政策と軍国主義の台頭との関係について、著者はまずこれまでの研究における4つの解釈をレビューしたうえで論を進めていく。
一つ目の解釈は、マルクス主義の立場に基づく解釈である。具体的には、高橋が独占的資本主義を代表する人物であるから、大蔵大臣として日本を資本主義の発展の最終段階である「国家独占主義」とファシズム、戦争に導いたというものだ。二つ目の解釈は高橋が属していた政友会が、経済的自立と中国に対する高圧的介入、軍事的拡張と積極財政を提唱していたという事実を強調するものである。そして三つ目の解釈は、日本の政治的な現実の下では、大規模な財政金融政策を行うにあたり軍事費を大幅増加させる以外に選択肢は無かったというものである。結局、高橋の財政政策は軍部に対する制約を解き放ち、潜在的に戦争への道を準備したという解釈だ。最後に四つ目の解釈は、高橋は軍国主義の台頭に対する責任はないというものだ。高橋は、外交軍事面における中国での対応や過度の軍事支出に反対しており、軍隊を政治的統制の下に置くために闘ったというのである。
 著者は、これら4つの解釈のうち、高橋が「独占的金融資本」を代表していたために日本をファシズムや戦争に導いたという解釈は、「独占的金融資本」を代表するのが高橋のみに留まらず、高橋の政策と井上や浜口といった正統的な古典派による財政金融政策とを区別できないため問題があるとする。そして二つ目の解釈も論拠となる資料を表層的にしか見ていないとして却下する。三つ目の解釈については、高橋は軍事費を増やす場合においても常に軍部が要求する金額よりも少ない額を提示し、常に陸海軍大臣やその部下と戦い続けていたことが見逃されているという。
著者が真実に近いとする仮説は第4の仮説だが、いくつかの修正が必要であるとする。つまり、高橋は積極的な意味でも消極的な意味でも軍国主義や陸軍のアジア侵略を支持したことは無かった。だが、満州の征服は高橋が編成した予算によりはじめて可能となり、その意味では軍国主義と全面的な戦争の一歩を記したものだというわけである。

(2)軍国主義への反対姿勢の軌跡
 著者は、軍国主義や陸海軍の対外侵略、過剰な軍事支出に対する高橋の反対姿勢の淵源を、日本の経済発展における前田正名の議論を支持した1885年当時から遡って論じていく。 
前田の行動、そして前田の議論が明治の元勲達の手によって否定される様を目の当たりにしながら、高橋は、国を富ませることは強い軍隊を作るよりも重要なことであり、国を富ませるための第一義的な目的は、全ての日本国民の生活水準を引き上げることだと考えた。そして、経済発展の主役となるのは、中央政府の官僚ではなく、地元市場や生産技術に関する詳細な知識を持つ地域の企業家たちであると考えた。そして、強力すぎる軍隊は経済発展を阻害するのみならず、日本の安全保障にとって危険でさえある。中国に対して攻撃的かつ独自の外交政策は危険であり、それが米英と中国との結びつきを誘発させるのであればなおさらである。外交に関しては外交官が主導権を握り、軍人はこれに従うべきである。このように考えたのである。
 高橋は、要職を歴任しながら、攻撃的外交政策、過剰な軍事支出、外国からの借り入れが日本の信用状態を脅かす場合には、一貫して反対した。英米との協調という考えに至ったのは、日露戦争において日本より豊かで強大な西欧諸国の協力が無ければ、経済的、外交的、軍事的にさえも日本の発展は無いということを外債交渉や欧米の金融家との交流を通じて知ったためであった。高橋は英米との戦争は軍事的にも財政的にも自殺行為であると信じていたが、西洋諸国に対する日本蔑視を他の日本人以上に不快に感じており、英米の価値観を卑屈に擁護したわけではなかった。むしろ英米の資本と産業の力を理解した堅実な現実主義者であった。
 著者はこのように高橋が元々軍国主義に反対であったと論じる。そして30年代に蔵相になった高橋もそうであったと論じる。これはその通りだろう。本書では、齋藤内閣や岡田内閣といった政党政治家を首班としない内閣の中にあって大蔵大臣として闘った高橋の姿が具体的に語られていく。
確かに財政支出の拡大を行ったのは事実だが、高橋はこれをあくまで一時的なものと捉えていた。そして、高橋が予算編成に関わった1933年度から36年度までの4年間において国民所得の比率は6.5%程度で安定していたことも重要だ。つまり軍事費が増加したのは事実であり、そのきっかけを作るという意味で高橋の経済政策は一定の役割を果たしたのかもしれない。だがこれは、人々の所得に見合った予算を編成する必要があり、国防に(重点配分をするといった形で)焦点を当てすぎると、手に負えないインフレを惹起し、信頼を失うことになる、そうすると国防も保てなくなる、という高橋の基本的な考え方と整合的であったことに留意しなければならない。因みに、軍事支出の国民所得に占める比率が急上昇したのは高橋の死後である。37年に15%、41年に27%、44年には76%となる。つまり高橋が蔵相在任中には軍事費への重点配分などなかったのである。
高橋は1936年2月26日(2.26事件)に青年将校の手にかかり命を落とすことになる。津島寿一は回顧録の中で「一般告別式には、各階層の方々の参拝が踵をつぎ、群をなして押し寄せたという有様であった。その中には幼児を背に、子供の手を引く裏店のおかみさん風の人々が多数を占めておったのを見て、私は高橋さんに対する一般大衆の敬愛の念のいかに広くかつ深いものがあるかを、強く印象づけられていたのであった。と同時に、それは軍の一部に対する一種のデモンストレーションとも見取られたのであった」と書いている。『ニューヨーク・タイムズ』は高橋の死を悼む死亡記事を掲載した。高橋の死によって、戦前の軍国主義に対する「最後の抵抗」が取り除かれることになる。

5.高橋と時局匡救事業
 最後に高橋と時局匡救事業との関係についての著者の議論を敷衍しよう。後世の学者たちは、恐慌期に高橋が時局匡救事業より多額の軍事費を支出しながら、時局匡救事業を1932年度から1934年度までのわずか3年間しか実施しなかったことを批判してきた。
 著者の議論によれば、高橋は時局匡救事業を継続しようと試みたが、同僚の大臣であった三土忠造によって阻止されたという事情がある。ただし、高橋自身は、中央の指示により匡救事業を進めることの価値については強い疑念を抱いていた。日本の景気低迷が最悪期を脱しつつある中では、現場主導の分権的な意思決定と草の根の市場情報に注意深く気を配ることを通じて、地域経済の発展を重視する姿勢に回帰していたと著者は言う。以上の点は現代の公共事業のバラマキ論をめぐる政策議論を先取りしているようで興味深い。

6.感想
 本書は高橋是清の生涯と思想を通じて、高橋が成し遂げたことの評価とその背景に何があったのかを体系的に論じた書籍である。高橋の人生は苦難の連続であり、それは生涯を通じてのものであった。だが、高橋は生来の楽観的な気質と幼い時から親しんだ英語の能力、そして封建的な教育を施されていなかったことが逆に利点となって、欧州、特に英米の知見を書物のみならず人々との関わりを通じて習得せしめるという、他の同時代人とは異なった次元を獲得するに至らせた。その点が日露戦争の外債調達の成功や、挫折を経た後の横浜正金銀行や日本銀行、ひいては大蔵大臣、政友会に所属する政治家といった形での栄達の道をもたらしたのであろう。
 そして英米との交わりは、高橋にニヒリスティックではない、リアリスティックな形での日本の立ち位置を認識させ、そのことが自国の経済発展、特に国民の所得の向上を旨とする政策観と、対外関係としては英米協調、中国と融和するといった国際観を持たせることになった。しかし世界的な大恐慌、国内では昭和恐慌という未曾有の事態の後に蔵相となった高橋の眼前には、経済の急激な悪化とともに、一方で高橋を含む政党政治家に対する諦念や恐慌の痛手の中から国民に支持された軍部という組織が立ちはだかることになる。度重なるテロルと粛清の中で孤立無援というハンディを背負い、高橋が拡張的な経済政策を行うことになった。確かに経済政策自体は成功を収めたといえるだろう。しかし、高橋が凶弾に倒れると社会のうねりは急転していき、我が国はどん底への道を突き進んでいくのである。
 こういった歴史の道程を一望する時、自分がまず感じるのは現代との奇妙な一致、もしくは既視感といった感覚である。大戦景気といったバブルが崩壊した後の1920年代における金融危機を伴う長期停滞は、90年代における長期停滞と重なる。この停滞は後半期にマイルドなデフレを伴いつつ進行したという意味でも共通だろう。そして、デフレを伴う長期停滞は、社会の弱者層に影響を与えつつ、格差を内包する形で深刻化していく。現代と昭和期には多少のラグはあるものの、こうした10年の停滞の後に世界経済が変容していき、再度我が国は不況に陥ることになる。
勿論、以上はアナロジーであって同じ事実が繰り返されるのではない。歴史上の事実と現在とは異なるという戒めは押さえておくべきだ。しかしそうであったとしても共通点を感じずにはいられない。昭和恐慌から我が国はいち早く立ち直ることができたのに対し、現代の我が国の回復は緩慢で、マイルドなデフレと総需要の停滞を克服できずにいる。しかし、やはり底流といった点、政治への国民の抜きがたい不信といった感覚は共通のものではないか。厄介なことに現代では「一時の便法」であっても兎に角経済を回復させるという認識を共有し、実行するという気概と行動力に政府は欠け、知識人の多くは寧ろ停滞を好み、政府の失敗を糊塗することに躍起になっているようにもうつる。
現代においては軍部といった具体的な形で政治の空白の間隙を縫って登場する主体は存在していないと思われるが、我が国が戦後の経済成長の結果として積み上げてきた様々な遺産が今後磨耗していくことを考えると何が生じるのかは不透明である。我々の眼前に生起しているのは、総需要の停滞とデフレ、長期に渡る総需要の低迷の結果としての成長力の停滞という状況であり、これが様々な局面の矛盾や問題の表出といった形で緩やかかつ確実に社会構造に浸透しているという状況ではなかろうか。
高橋の経済政策においても明らかな通り、拡張的な財政・金融政策が20年にわたる長期停滞で生み出されたものをたちどころに全て克服することは困難だろう。しかしだからといって、高橋の経済政策という「成功例」を無碍に溝に捨てる程、我々は賢くなったのか。
10年前の経済論争と現代の論争は繰り返しという見方がある。更に言えば、デフレをめぐる経済論争は昭和恐慌における経済論争と大差はない。10年の時のみならず近代すら超克できていないのではないか。
後世の一凡人たる我々は、ともすれば過去の成功例の欠点をあげつらい、現代と過去とは異なるという極めて分かりやすい了解を慰めとして共有してはいないか。私は後世の一凡人が過去の偉人に勝てる唯一の強みがあると思う。それは歴史のその後を知っているという強みだ。成功が失敗への端緒となったのであれば、むしろそのことを糧として、先に進むことが可能なのも後世の一凡人の利点であり、責務でもある。いささか話が脱線気味であるが、このようなことを感じた次第だ。

2010年11月17日水曜日

リチャード・J・スメサースト『高橋是清 日本のケインズ-その生涯と思想』を読む(その2)

(その1)では、高橋是清という人格の形成過程を明らかにすること、公職についた高橋がどのような形で独特の思想を育むに至ったのか、大恐慌時の財政金融政策をどう評価するか、そして高橋の政策が軍国主義の台頭に与えた役割、という著者が明示する4つの大きな論点のうちの前半2つの点について簡単にまとめてみた。その2では残りの2つの点のうち、大恐慌時の財政金融政策について感想を交えつつ敷衍してみよう。

3.大恐慌時の財政金融政策の評価
(1)国際環境から見た昭和恐慌の特徴
 まず著者の議論に耳を傾ける前に、昭和恐慌の特徴を国際的な相違に留意しながら見ていこう(伊藤正直(2010)『なぜ金融危機はくり返すのか』旬報社、中村隆英(1993)『日本経済-その成長と構造<第3版>』東京大学出版会、長幸男(2001)『昭和恐慌-日本ファシズム前夜』岩波書店、等を参照)。

①長期停滞の後で生じた恐慌
一つ目の特徴は、昭和恐慌が1920年代の長期停滞の駄目押しのような形で生じたということである。この点は1921年から29年まで、相違はあるものの景気拡大が続いていた欧米とは対象的であり、世界的なバブルの形成と崩壊、そして世界金融危機の中で「失われた20年」に陥った我が国という、現代との比較においても奇妙な一致ともいえる(図表1)。

図表1 奇妙な一致

出所:若田部昌澄(2010)「危機の経済政策-湛山ならどう立ち向かうか」経済倶楽部講演録2010.11所収、図表3を参照しつつ作成。

少し1920年代当時の動向を跡付けてみよう。第一次大戦期の好景気(大戦景気)における1910年代の我が国は高成長(実質成長率7.3%、名目成長率27.3%)に沸き、対外債務国から対外債権国へと変貌を遂げたのだが、1920年3月の株価暴落を契機として長期停滞に陥る。そして1925年以降はデフレに突入した。デフレの持続は多くの財閥・企業を経営困難に陥らせて産業の寡占化を進め、第二次産業における熟練労働者と未熟練・若年就労者との間の賃金格差を生み出した。人員削減の中で農村から都市に流入した人々が向かったのは第三次産業、特に中小商工業であり、低賃金を前提に労働集約的なサービスを提供した。このサービスを利用したのが大企業である。以上のように、熟練労働者と未熟練・若年就労者、中小商工業と大企業といった「二重構造」を内包しつつ、デフレが続いたのである。「慢性不況」と呼ばれた1920年代には、金融危機も生じた。1927年には、十五銀行や藤田銀行、加島銀行、近江銀行が破綻し、植民地の中央銀行である台湾銀行と朝鮮銀行が事実上の破綻となった。政府・日銀は巨額の救済融資を実行したが、救済融資の返済には25年を要することになった。この結果として、1930年から31年にかけての昭和恐慌では、米国で生じたような大規模な銀行破綻と信用恐慌は生じなかった。

②震源地よりも大であった物価の下落や貿易の縮小
 二つ目の特徴は、恐慌時の物価の下落率や貿易の縮小率が、危機の震源地であった欧米よりも大きかったという点である。財別に見ていくと、1929年6月から30年末にかけて生糸の価格は52%下落した。綿糸、金巾、米、大豆といった貿易財の価格も4割から5割下落した。株価は28年から先行的に下落しており、造船、鉱業及び石油、電力、化学といった重化学分野で大きかった。

③金本位制離脱と大恐慌のタイミング
 三つ目の特徴は、日本が金本位制に戻ったのは世界恐慌が生じた後であったという点である。金本位制復帰の理由としては、日露戦争の際に英国から借りた四分利付英貨公債の借り換えを行うための条件であったこと、31年にできたBISの理事国となるための条件であったことが挙げられる。世界競争から脱落者になるのを防ぎ、国際標準に適合する道として、金本位制の復帰が位置づけられ、これができなければ日本は世界の三等国になるというのが当時の政府の判断であった。しかし、金本位制への復帰は、ウォール街の株価暴落が生じた後となった。そして、恐慌下で膨大な量の正貨(金)が流出する。正貨流出額は30年~31年にかけて7億8700万円、我が国の正貨保有高は金輸出解禁時点の13億4400万円から31年12月末には5億5700万円へと激減したのである。

④急速な恐慌からの回復
 四つ目の特徴は、恐慌からの回復が極めて急速であったということである。日本は31年12月に金本位制を停止し、32年に高橋財政がスタートしてから、工業製品を中心にして恐慌からの回復が極めて短期間で生じた。米国や欧州は、38年~40年の時点でようやく29年の水準を回復したのに対して、日本は34年には既に29年の水準を回復した。具体的には、1920年代の「失われた10年」においてマイルドなデフレ、昭和恐慌時には10%というデフレを経験した日本経済であったが、高橋財政により2%程度のマイルドなインフレーションと7%程度の実質成長を可能とするまで回復したのである。
だが、この回復は農業とその他産業ではズレがあったことも指摘せねばならないだろう。例えば米の生産や価格が回復していくのは1935年のことであり、生糸が29年の水準を回復したのはずっと後のことであった。先程停滞には「二重構造」を内包したと書いたが、停滞からの回復も又ばらつきが生じていたのである。

(2)日本のケインズ
①高橋の経済政策における4つの疑問
 長々と昭和恐慌前後の特徴を概説した理由は、以上の話をあらかじめ頭に入れておくことで、著者の議論を読んだ方がより面白いのではないかと感じたためである。
さて本書で高橋の経済政策についての記述がなされる箇所は、「日本のケインズ」と銘打たれた第12章である。高橋が大蔵大臣に就任したとき、物価は急落、失業は増加、農家は農産物価格暴落により打撃をうけ、鉱工業生産は停滞して工場は休業ないし稼働率が低下した状態にあり、新規設備投資はほとんど行われていなかった。こうした問題に対処すべく、半年あまりで高橋は前任者の緊縮政策を劇的に転換させ、非伝統的な財政金融政策の導入により景気刺激をはかり、日本経済を回復へと導いたのである。
 金融政策では、日本を金本位制から離脱させて紙幣の金との交換可能性を絶ち、ドルとポンドに対して円を切り下げ、公定歩合を引き下げて金利の低下を促し、日本銀行券の発行限度額を引き上げる法律を導入した。通貨切り下げによって、貿易縮小が生じた世界とは異なり日本の輸出は好調を維持した。
 さらに高橋は、需要刺激のために財政支出を拡大させることで景気変動を平準化させるという財政政策を行った。高橋は歳入と歳出の差額を増税で埋めるのではなく、低利の国債を日銀に直接売却するという「引き受け」により埋め合わせた。これにより、政府支出はマネーの増加を通じて有効需要を拡大させ、輸出の増加と相まって生産と雇用を刺激した。
 時系列で高橋の行った経済政策をみていくと、金輸出再禁止(金本位制からの再離脱)が1931年12月13日、日銀による赤字国債の引受けが行われたのが1932年11月~1935年末、拡張的財政政策の実行は1932年夏に成立した1932年度補正予算から1936年度予算までの期間である。財政政策と金融政策の両輪を働かせたのが高橋の経済政策の特徴だが、金輸出再禁止の実行から拡張的財政・金融政策の実行の間にはラグがある。後でみるように、このラグの時期に行われた政策、およびその背後で政策当局がどう関わったのかという点が興味深く感じるところだ。
 さて、著者は、第12章の議論を進めるにあたって、いくつかの疑問を提示している。ひとつは、金本位制離脱による円切り下げは「近隣窮乏化」政策に結びつくのではないかという点だ。そして二点目は、国債引き受けを伴う政府支出の拡大が、大蔵官僚や中央銀行員に市場の制約を無視して通貨供給量を拡大させる権限を与えたという意味で危険ではなかったかという疑問である。三点目は、高橋が行った時局匡救事業と軍事費を中心とする財政支出は、軍国主義の台頭や我が国が引き起こした戦争に向けて決定的な役割を果たしたのではないかという疑問である。最後の疑問は、なぜ高橋は時局匡救事業を1934年に終了させてしまったのかという点である。
これらに答える形で議論は進んでいくが、(1)でふれた昭和恐慌突入の過程と、井上・高橋の論争といった点の記述も臨場感あふれる筆致で興味深い。本書の記述を読んで自分が興味深く感じた点も合わせてふれながら見ていこう。

②深井英五の役割
 自分が興味深く感じた点の第一は、高橋が大蔵大臣に就任し、金輸出再禁止が実行された時期(1931年12月)の前後における深井英五の役割である。
深井は当時日銀副総裁であり、高橋が日露戦争の戦費調達のためロンドンに滞在した時(1904年~1905年)からの側近である。深井は、井上の後に大蔵大臣の指名を受けることが確実視されていた高橋のもとを訪れて、金本位制離脱と金輸出を速やかに禁止すること、早急に日本国内で通貨を金に兌換することを禁止する勅令を公布する準備を進めるべきことを進言した。高橋は金本位制離脱と金輸出禁止には賛成するものの、金兌換停止には懸念を表明する。それは、高橋でさえも現下の危機からの脱却が可能となった暁には金本位制に復帰するものだと考えており、円の価値を安定化させるアンカーを持たずに円相場を変動させることへの危惧があったためである。通貨の番人たる深井が通貨のアンカーとしての金からの離脱を支持し、逆に放漫財政との批判もあった高橋がこれに懸念を表明するという図式はいささか奇妙なものだ。
ただし深井と高橋は、日本が管理通貨制を採用するのであれば、深井が提示した「生産性と通貨供給量を調和させるような金融政策を遂行することが必要」という点では合意していた。高橋の後を継いだ大蔵大臣らは、この金言を無視するようになり、そして1937年の初めに深井は日銀総裁の職を辞することになったわけだが、この点は著者の言うとおり日本にとって不幸な事態といえるだろう。

③円切り下げに関する当時の論争
 高橋と深井が考えた政策は、輸出促進のために円を切り下げ、金本位制の制約を外すことで通貨供給が行えるようにして流動性を供給するというものであった。
著者は金本位制離脱と円切り下げ政策に対する当時のマスコミの反応として、『東京日日新聞』や『エコノミスト』、『東洋経済新報』の論調を取り上げる。
『東京日日新聞』や『エコノミスト』の論調は、金本位制からの離脱は不可避であり、卸売物価や消費者物価の回復が予想されるものの、インフレを防止するためにこの拡張政策を注意深く監視すべきだというものであった。そしてジャーナリストの中では、『東洋経済新報』の石橋湛山とその仲間達がデフレの有害な影響を認識していた。『エコノミスト』では、経済学者は金本位制からの離脱には一致して反対していたが、同誌は「経済学者は通常の学問的立場から」高橋を批判しており、彼の政策が経済に対して有害であるという理由からではなく、彼の政策が正統的な経済理論に反するという理由から反対している、と述べている。ケインズの『貨幣改革論』を現実の政策に活かそうとしたのは石橋らのグループのみであった。この一節を読んで、現代における「正統派」の議論にも同様の側面が垣間見えると自分は思う。
そして作者の論争の紹介は、32年1月21日の高橋・井上による「OK牧場の決闘」の記述で最高潮を迎える。「OK牧場の決闘」が行われたのは、高橋が所属する政友会が民生党を抑えて総選挙にて勝利する1ヶ月前のことである。
 高橋と井上の議論は、現代における通貨切り下げ競争と金融緩和策の評価に関する議論を考えると意味深い内容である。彼等の主張を紹介しよう。
高橋はまず日本における恐慌の原因は、浜口・井上の「超緊縮予算」であり、世界的に採用されたデフレ的な政策により引き起こされた大恐慌は日本にも影響を与えたが、日本の経済的苦境は主に民生党の政策によるところが大だと表明する。前政権の政策は、金融を閉塞状況に陥らせ、産業は衰退し、日本経済を不況のどん底に落としめた。金輸出再禁止は、このような状況を打開する第一歩であるというのが高橋の主張である。
 一方で井上は反論する。高橋は誤っている。まず、日本における恐慌は世界の他の地域に比べて軽微なものに留まっているというのが世界の財界人の一致した見解であると論じる。そして為替相場の切り下げにより輸出を拡大させるという高橋の構想を批判する。井上は円の切り下げが日本経済の回復をもたらすことはないと述べる。この理由として、円を切り下げても米国向けの生糸輸出が利益を受けることはなく、他国は日本からの輸入を抑制するために、通貨切り下げや関税引上げといった報復措置を取ることが予想される。そしてマネーの増加はインフレにつながり、国民生活に打撃を与える。そして高橋の構想が日本のためになるとしても、これは他国の犠牲において日本の国益を推し進めるものであって、国際倫理に反するというものだ。
 高橋と井上の議論は、鋭く対立する二つの政策的立場を表明したものであった。井上が提唱した政策は、国際金融市場の秩序に則るというものだ。国際的な枠組みが崩壊しつつあるのならば、日本を優先することが高橋の考えであった。そして、この二つの立場は日本の立ち居地についての齟齬からも生じる。つまり、井上の議論は日本が実際よりも金融大国であるという自負から生じたのかもしれず、それは国際金融市場の大御所と井上のつながりによるものなのかもしれない。一方で高橋は経済的にも金融的にも、日本は小さな存在であることを自覚していた。この点、日露戦争時の外債発行における経験、つまり英米と比べ日本の力が弱小であったことを自覚していた点も影響していたのかもしれない。
ややわき道にそれるが、日本は小さな存在であるという高橋の認識は石橋湛山の「小日本主義」にも通暁するのではないか。対極としての「大日本主義」は軍備拡張と植民地拡大へと繋がるが、その中で台頭したのは軍部であったのは言うまでもない。一方で小日本主義は、軍備拡張と植民地拡大を否定し、自由主義と自国の経済的安定のための資源の重点配分を旨とした。この点、高橋と石橋の思想、更にはケインズをはじめとする世界の一級の経済学者の思想との共通点があったといえるのではないだろうか。だからこそ高橋はケインズに先駆けて拡張的財政・金融政策を実行に移せたのであろうし、石橋は経済学のエッセンスを体得することができ、現実に即した柔軟な思考を持ちえたのではないか、そんな風に感じた次第だ。

④金融面での準備的政策の実行
 先程書いたとおりだが、自分は昭和恐慌下における一連の経済政策の中で、国債引き受け・財政拡張に至る前段階としての金融緩和策が(財政・金融政策の大々的な実行とあわせ)重要ではなかったかと考えている。
ある政策が望ましいと分かっていても即座に実行に移すためには「政策のインフラ」と呼ぶべきものが整備されていることが必要だ。卑近な例かもしれないが、最近の事例で考えれば、定額給付金や子供手当てといった家計への直接支給を行う際に、あらかじめ納税者番号制度といった政策インフラが整備されていれば実行はより容易となったはずだ。また給付付き税額控除といった政策も容易に行うことが可能になる。国債引き受けを伴う金融緩和と財政政策の実行を強力に進める前段階においても、それを可能にする準備的政策が着々と実行され、それが本来の政策の効力を増すことに影響したのではないかということだ。
 著者は、金融面で二つの施策を用意していたと述べる。一つはマネーサプライを大々的に増加させることを可能にするような制度的枠組みである。具体的には、1932年6月の兌換銀行券条例中改正法律、日本銀行納付金法、日本銀行参与会法の制定である。重要なのは兌換銀行券条例の改正だが、これにより日銀の保証準備発行限度1億2000万円が10億円まで増額された。そして制限外発行の要件も緩和された。
 もう一つは、低金利政策の実施である。公定歩合は高橋就任時には5.84%だったが、33年には3.65%に引き下げられ、蔵相在任中にはこの水準が維持された。低金利政策の実行は、低利での国債発行を容易にするという側面と、企業が事業拡大を行う際の資金調達を容易にするという側面もあった。
 本書では登場しないが、国債引き受けを容易にするという視点で言えば、伊藤(2009)でも指摘があるように、当時高橋は国債優遇措置のための政策を行ったということも指摘しておくべきだろう。つまり1932年4月の国債担保貸出に対する高率適用の緩和であり、32年7月の「国債ノ価額計算ニ関スル法律」の公布である。前者は融通期間30日以内の国債担保貸出について従来適用されていた金利を適用しないと決めたことであり、後者は商法の規定に関わらず国債については取得当時の時価を越えない範囲で大蔵大臣の交付する標準発行価格を帳簿価格とすることを認めたというものである。この制度により、国債の市場価格が下がっても評価損を計上する必要がなくなったというわけだ。国債価格が政府により管理されるため、金融機関の国債保有は安全有利な形となったのである。
 さて、大規模な財政・金融政策を行う前段階としての制度改正は、当時の日銀が「日銀による国債引き受け」に(後世の整理とは異なり)前向きであったのではないかとの考えをよぎらせる。確かに深井英五は、日銀による国債引き受けを後に「最大の失敗」であったと反省したのは有名な話であり、『日本銀行百年史』でも「本行引受による国債発行の危険性については、本行もある程度意識していたことは明らかであるが、結局高橋蔵相の強力な要請に押し切られ、『一時の便法』としてこれを容認したものと思われる」と述べて高橋のリーダーシップに原因を求めている。だが、1932年6月の兌換銀行券条例中改正法律、日本銀行納付金法、日本銀行参与会法の制定や、先に見た深井の高橋に対する金輸出再禁止の進言、そして深井が「生産力と通貨との均衡を主たる目標として通貨の運営を按配すべし」とし、金融や財界の閉塞を打開するには金本位制からの離脱が必要であると考えていたことを勘案すれば、マネタリーベースの円滑な拡張のために対民間信用のみならず対政府信用を活用するという可能性を現実的な路線として判断したとする伊藤(2009)の議論の方が説得的と感じられるのである。

⑤高橋が直面した政治・経済状況
 そして高橋の経済政策を考えるにあたり考慮すべき点は、昭和恐慌後の政治・経済状況についてである。著者が述べるように、昭和恐慌は政治及び経済の両面で日本に大きな傷を残した。悪循環に陥った経済の中で、世界各国は保護主義的な経済的自立を選択していく。米国は悪名高いスムート・ホーレイ関税法を成立させて関税を史上最高の水準まで引き上げた。英国は連邦諸国に対して特恵的な扱いを認めた。その他の諸国も英米に対抗して報復的に関税を引き上げるようになる。崩壊しつつある世界経済の枠組みを目のあたりにした高橋が、日本のみがその枠組みに忠実であることに何の利点も無いと考えるのは自然なことだろう。このような局面の中で政党に基盤を置く井上や、協調外交の立役者であった幣原、犬養、そして高橋自身も、政治的集団の中で徐々に信頼を失っていく。彼らに反対する勢力は、外交的・軍事的な自主性と、政党政治の廃止を提唱することになる。
 彼らに反対する勢力、つまり「自立日本の追求」を掲げる人々の中で最も強力な一派は軍部であった。陸軍は1931年9月に中国東北部に進出し、大衆はこれを喝采で迎えた。1920年代に民主主義をはぐくんだ大衆社会は、30年代には国家主義の潜行、米国の排外主義に対する敵意、中国の民族主義的抵抗に対する怒り、恐慌下における日本人の苦痛、矛盾、といった内外環境に関する様々な要素が混在しつつ、兵隊さん、分かりやすい答えを出してくれる人、弱腰な民主的妥協ではなく直接的行動と専制政治を提唱する人、つまり軍部への熱狂的な支持を集める土壌が生じた。そして政友会の主要人物の中でさえも、森格のように自らのよってたつ政党政治を反対することに加担する人物も出てくるようになった。
 1931年から36年にかけて、軍部の様々な勢力が、海外侵略、国内クーデター、暗殺といた暴挙に出て、日本の政治と外交政策を変質させてしまう。これは協調を提唱した人々を殺すか沈黙させることに繋がった。1931年12月に高橋は5度目の大蔵大臣に就任し、1932年5月15日の犬養首相暗殺後の5月26日に6度目の大蔵大臣に就任することになる。 高橋が経済政策を行っていたのは、以上のような政党政治に対する軍部の圧力、その背景にあった閉塞感といった状況下であった。そして犬養内閣の後継内閣は政党内閣ではなく退役海軍大将の斎藤実を首班とする内閣であった。斎藤内閣の成立に際しては、与党政友会と軍部との関係や政友会の強硬な外交政策の危惧もあったため、政党内閣ではなかったことも重要な特徴だ。(その3)でふれることになる軍部の圧力に対する高橋の抵抗は、命の危険と隣あわせの中で繰り広げられたことも留意すべきだろう。

⑥財政・金融政策の実行
 6度目の大蔵大臣に就任した高橋は、1932年6月3日と8月25日の二回にわたって議会にて財政に関する重要な演説を行った。高橋が表明したのは、公共事業の拡大や軍事的費用の支出を含む政府支出の大幅拡大、不況により減少した税収と拡大する財政支出の差を埋めるために国債を発行すること、大蔵省はこの国債を日銀に引き受けさせ、日銀は適切な頃合いを見計らって引き受けた国債を市中で売却すること、既にみた銀行券の保証発行限度額の大幅拡大、金利の引下げの促進、地方銀行への融資拡大を通じた地方金融の増強といった政策であった。
 そして高橋は1936年にかけてこれらの政策を実行していく。筆者の整理に従いながらみていくと、1931年度の中央政府の歳出は15億円であったが、32年度の歳出は20億円と3分の1増加した。税収は低迷していたため、歳出と歳入の差額は国債発行で穴埋めされるが、国債発行額は31年度の3000万円から32年度に7億円と大幅に拡大する。1935年度までの歳出は20億円~23億円の水準で推移し、国債発行額は6億円から9億円のレンジで推移した。日本銀行はこれらの国債を引き受けたが、35年末までに引き受けた国債の9割を市中で売却したことも注意すべきだろう。つまり、日銀は国債を引き受けることで増加した流動性を一定の期間を経てほぼ吸収していたのである。深井が言う「一石三鳥」の妙手というわけだ。そしてこの間の消費者物価の上昇率は年率3%未満と低位に抑えられた。
 高橋が行った政策は、軍部、文民官僚、恐慌対策(時局匡救事業)向けの支出を増加させた。軍部の予算は1931年度から1933年度にかけて2倍以上に拡大し、35年度までに10億円を超え、政府予算の半分弱を占めるようになった。軍部以外の省庁による支出は1931年度から33年度にかけて16%増加し、34年度、35年度とわずかに減少した。中央政府は1932年度から34年度にかけて5億4400万円を時局匡救事業として支出したが、その後全ての企業が廃止された。1932年度から34年度にかけての政府(中央及び地方)の投資は17億円に相当し、恐慌対策としてかなりの効果を上げたが、それでも軍部が受け取った金額の3分の2には届かなかった。
 マクロ経済学的な見地からすれば、高橋の政策の効果はめざましい。1931年から36年にかけて国民所得は6割の増加、消費者物価の上昇は18%であった。つまり、名目で見ても実質で見ても国民所得は急激な伸びをみせたのである。井上財政期の状況(名目所得2割減少、実質所得も停滞)と比較すればそれは明らかだろう。そして就業者数が増加し、36年には完全雇用の状態に日本は復帰する。個人所得も回復していき、タイムラグを経て経済の最低層であった農業労働者の実質賃金も35年から39年の間に増加に転じた。日本は米国よりも5年も前に世界恐慌から脱却し、ドイツを除くどの先進国よりも劇的な復活を果たしたのである。

⑦高橋は「近隣窮乏化」政策を進めたのか?
 さて、著者は最後に当初指摘した4つの質問のうち、前半二つの質問に答えている。高橋は「近隣窮乏化」政策を進めたのか?著者の答えはイエスだ。
しかし、著者が注意深く指摘するように、米英をはじめとする先進国経済が自国を第一に考え、国際協調と呼ばれるものが各国の財政指導者にデフレ的な政策を要求する状況で、「日本の」経済を恐慌から脱却させるためには他に選択肢は無かったとも言えよう。この状況は自分にとってはまさに現在と通じると感じる。現代においても世界的な金融緩和競争の様相を呈する中で、国際協調といった文脈では財政支出の切り詰めといったデフレ的な政策が志向される状況がある。昨今急激な形で進んだ円高もこの二つの「差」を政策当局が見抜くことができず、適切な政策が打てていないことに原因があるのではないか。そしてまさに大恐慌からの脱出は、各国が金本位制のくびきから逃れ、自ら金融緩和を積極的に行うという形を通じてなされたという点も考慮すべきだろう。

⑧高橋の政策がその後の放漫財政の道を開いたのか?
 著者は二番目の問い、つまり高橋が1932年に財政支出の拡大を行ったことで、放漫財政に日本は陥ったのか?という点についてはどう答えているか。この点についての著者の答えは同意するところだが、つまりインフレはいつどんな状況でも許容できず、国民所得の停滞とともにデフレが進行しているような状態においても許容できないのならば、高橋の政策は放漫財政であったというものだ。しかし、財政安定は国民所得の安定的増加よりも上位の目的なのだろうか。そうではないだろう。
 高橋の政策が放漫財政に繋がったという意見に賛意を持つ人々はこういうかもしれない。曰く、戦時インフレの端緒となったのが高橋の財政政策によるものであり、また国債の日銀引き受けという制度によるものだと。しかし著者が言うように、高橋は常々、財政拡大と政府支出の増加は急場しのぎの一時的政策で、日本が恐慌から脱出した際にはやめるべきものだと述べていたことを忘れている。そして次で見るように、様々な制約の中で高橋が断固として歳出拡張を求める軍部と戦っていたこと、その果てに暗殺されたことも考慮すべきだろう。さらに、高橋死後の急激なインフレが生じたのは、戦費調達のために著しく過剰な形での国債の日銀引き受けが行われ、それが公開市場で売却(つまり吸収)できなかったことが、貨幣の増発に繋がったことが理由である。高橋が編み出した政策の運用が不味かったことで政策を編み出した張本人の責任とするのは後の人間の傲慢でもあり、お門違いの批判だろう。
現代においても高橋の政策、特に国債の日銀引き受けに対する批判は根強い。勿論、非伝統的な政策をやらずに済むのであればそれに越したことは無いが、必要なタイミングであるにも関わらず運用の危険を殊更重視するのは誤りではないか。後世の人間の唯一の利点は、先人の勇気ある決断と行動を、その当初の状況だけではなく帰結に至る過程まで捉えることが可能だという点だろう。運用に問題があるのならば、単なる批判ではなく、運用をうまく行うための工夫こそ、後世の人間が考え、行動すべきことなのではないか。本書を読んで改めて感じた次第である。

2010年11月2日火曜日

若田部昌澄『「通貨安競争は悪」の誤解-国際学派の研究が教えるもの』を読む。


週刊エコノミスト臨時増刊2010年11月15日号に収められたこの論文は、「通貨戦争の泥沼」と題された増刊号の中で必読の論文の一つである。若田部氏は現在の経済危機について、歴史についての確かな知見の必要性を訴える。それが、巷間言われる「通貨安競争は悪である」という誤解についてだ。
通貨安競争は悪であるという誤解とは何か。それは、大恐慌時の通貨安競争がブロック経済化と貿易縮小を生み、世界的な大不況につながったというものである。この文脈からは、為替介入を行ったわが国は悪であり、わが国の行動を認知してもらうためには各国の理解、つまり協調が必要だということになる。このような筋書きはマスコミの報道でもよくなされるところだ。
しかし、このような通貨安競争は悪であるという日本の論者の認識と欧米の論者の認識は異なる。若田部氏はその認識の差は「知識のギャップ」にあるという。つまり、大恐慌を説明するための学説としては、現代は国際学派と呼ばれる知見があることが浸透されていないため、「為替切下げ競争」をめぐる政策論議に混乱が見られるというのが、氏の議論である。
国際学派とは、大恐慌が世界中に伝播する際の国際通貨制度が果たす役割に着目するというものだ。
つまり、米国の景気後退は1928年頃から始まったが、これが世界的な不況になった大きな要因の一つが金本位制という国際通貨制度であった。大恐慌は金本位制という制度を通じて伝播し、これからの離脱が早い国ほど、大恐慌からの回復も早かった。金本位制は資本移動の自由と固定相場制の2つを採用することに等しいが、金本位制の元で不況が生じると人々は金という安全資産に逃避するため、金が対外・対内的に流出する。そこで、中央銀行は不況にもかかわらず金利を上げざるをえなくなってしまう。結局、不況が深化して大幅なデフレ不況となる局面で金本位制に縛られることで金融緩和が出来なければ、経済停滞は長期化してしまうという訳だ。
為替切下げ競争についてのポイントは、金融緩和を伴うか否かを区別するということだ。金本位制のくびきから逃れ、資本移動の自由化と固定相場制の変わりに、資本移動の自由化と自律的な金融政策の2つを選択するという形で手段を組み替えれば、金融緩和の結果として為替が切り下がっても、相手国も同様の手段をとることで金融緩和の効果が自国及び相手国に行き渡るという「近隣富裕化効果」になる。
現代は、わが国を含む主要国は、固定為替制を放棄し、資本移動の自由化と自律的な金融政策を「国際金融のゲームの手段」として採用している。円高が定着しつつある局面では、為替介入ではなく金融緩和を行えば良いのであって、「米FRBの金融緩和策が円高の原因だ」というのならば、わが国も金融緩和を行えば良いのである。このあたりは若田部氏の本論文の最後の主張、「第二次世界リフレ競争に乗り遅れるな」というものに繋がる考え方だ。
先に通貨安競争に関する認識のギャップの鍵として、若田部氏は「知識のギャップ」という点を指摘していることにふれた。では、この「知識のギャップ」、言い換えれば通念とも言える考え方はどのように形成されたのだろうか。論文によれば、この通念に寄与した考え方はラグナー・ヌルクセによるものだと若田部氏は言う。
ヌルクセの引き出した教訓は、為替レート調整が頻繁に行われた事が国際貿易体制の崩壊につながるというものだ。そしてヌルクセは、為替レートの対外的均衡と国内の政策目標追求の2つを整合的に解決する仕組みを構想するようになる。この理解を前提とすれば、30年代を通じて、各国は失業など国内の政策目標を追求するようになり、そのために対外経済が犠牲になり、経済のブロック化が進み混乱が助長されたということになる。この理解が正しくないことは、先の国際学派の知見からも明らかだ。更に言えば、ヌルクセの考え方は、ブレトンウッズ体制の構築にも共鳴するものだが、現代の国際通貨制度は、ブレトンウッズ体制の崩壊の経験を通じて築かれた事にも留意すべきだろう。
若田部氏の著書『危機の経済政策』にも書かれているが、「歴史は韻を踏む」のであって、同じ事実が繰り返される訳ではない。しかし歴史上の事実についての「知識のギャップ」を埋めないことには、通貨安競争においてわが国が正しい判断を下すことも難しいだろう。独断に陥るのではなく、現代の国際金融におけるゲームのルールを正しく把握するために、歴史が語るものについて謙虚に耳を傾けることこそが必要なのではなかろうか。

2010年10月27日水曜日

リチャード・J・スメサースト『高橋是清 日本のケインズ-その生涯と思想』を読む(その1)



 本書は高橋是清の誕生から暗殺までを丹念に辿ることを通じて「日本のケインズ」と呼ばれる稀代の財政家の足跡、およびその足跡を育んだものとは何かを論じている。

著者は最初に、本書の主たる目的として、高橋是清という人格の形成過程を明らかにすること、公職についた高橋がどのような形で独特の思想を育むに至ったのか、大恐慌時の財政金融政策をどう評価するか、そして高橋の政策が軍国主義の台頭に与えた役割、の4点を大きな論点として挙げる。(その1)では最初の2点について纏めてみたい。

1.高橋是清という人格の形成
本書でまず指摘されるのは、独学の財政家、政治家としての高橋の学びの形跡をたどることである。この点に関しては、著者は高橋が狩野派の絵師であった川村守房と北原きんとの非嫡出子として生まれ、幼くして武士階級として最低の身分であった足軽の高橋家に養子に出されるという特異な教育環境を挙げる。封建制末期における武士の師弟は、朱子学か蘭学を学ぶのが通例であったが、幼少期の高橋はこういった教育を受けておらず、寺子屋にすら通わなかった。読み書きは祖母喜代子及び繋がりのあった寿昌寺で身につけたものと考えられる。そして、高橋の後の世代の人々がそうだったように、東京帝国大学や慶應義塾といった高等教育機関で西洋人や西洋で教育を受けた正規の教員から専門的教育を受けることも無かった。

では高橋は何を学んだのか。高橋が身につけた唯一の実用的技能は英語である。高橋が学んだ英語は、福沢諭吉のように書物を読んで丸暗記したものではなく、井上準之助のように東京帝国大学にて正規の教育を通じたものではなかったが、英語を母国語とする人間から直接学んだことで、高い会話能力を身につけるに至った。

幼い時分から外国人に囲まれ、日常的に会話をするという経験は、外国人に対する無用の恐れ・気後れを払拭するのに役立った。そして幼い時から、西洋から学ぶことで日本を豊かで強い国にすることに生涯を賭した人々と親交を結ぶことができた。更に、英語は高橋を幾度かの窮地から救い、そして彼を国際的舞台へと押し上げる役割を果たした。

高橋を取り巻く環境は、封建末期の古典的教育や近代の正統的教育に囚われない価値観を持つことを促し、そして書物を読み、他人と話し、学ぶことに対するあくなき欲望を持つに至らしめた。子供としては型破りな暮らしは、超然とした客観的な思考をもたらす事の助けになった。時代の因習に惑わされず、問題を客観的な外からの視点で見て、現実的な解決策を見出し、実行するという能力はこうした環境で磨かれたのである。

高橋の人格形成には、勿論、幼年期から青年期の稀有な体験も大きな影響をもたらしただろう。高橋は、13歳にしてサンフランシスコに旅立ち、3年間の強制労働を伴う契約書にサインしてしまったが、14歳の時に強制動労から逃れることができた。帰国後にも騒動に巻き込まれるが、難を逃れることができた。

高橋の人生は困難な課題への挑戦と克服の過程でもある。これを乗り越える事ができたのは、高橋が勇敢な人であったためだと著者は言う。その通りだろう。

2.公職にあった高橋是清の努力
 高橋が最初の公職に就いたのは、前節でもふれた英語力のお陰である。高橋は14歳で大学南校の教師という職に就く。実践的な英語の知識は、明治政府のお雇い外国人(シャンド、フルベッキ、グリフィス、モーレー)との親交を育ませることになる。そして、政策上の問題では考えが必ずしも一致していなかった伊藤博文、井上馨、山県有朋、松方正義といった明治の元勲から重要な仕事を任されるようになった。農商務省にて、日本最初の特許と著作権に関する法令を起草したり、改正する仕事を担当することになったのも英語力が大きく影響した。
 
  著者は、高橋に大きな影響を与えた人物として、前田正名とジェーコブ・シフの二人を挙げる。

前田は、松方大蔵大臣によるデフレ政策の最中に、伝統的な地場産業に基礎をおいた経済成長を提言した人物である。『興業意見』として纏められた提言の中で、前田は、西洋から重工業を日本に移植させる過程で、中央や財閥を潤わせる形での経済成長ではなく、自作農家や地元の小規模企業家が利益を得ることが可能になるような経済成長が必要だと論じ、松方を激しく批判した。

著者は、高橋が前田と付き合う中で、国民の生活水準を引き上げることが経済発展の主な目的であり、これにより更なる発展が促進されるとする思想を捨て去ることはなかったと述べ、高橋が大蔵大臣として採用する経済的発想法、つまり賃金が上昇すれば消費と需要が増加し、更なる消費と需要がもたらされるという乗数効果の概念を考え始めたのだと論ずる。そして、前田は高橋の思想の中に、経済成長は軍備よりも重要だとする信念を植えつけた。山県と彼の後継者達は「国防は本で財政は末なり」と主張したが、高橋は逆に考えていたのである。

更に、高橋は、市場の情報に依存しながら現場で意思決定することが効率的であることを前田から学んだ。この点、高橋が中央の指示により匡救事業を進めることに強い疑念を抱いていたこと、昭和恐慌の最悪期から脱する局面において、高橋が現場主導の分散的な意思決定と、草の根の市場情報に注意深く配慮することを通じて、地域経済の発展を重視する姿勢に回帰していたという著者の指摘は興味深い。

シフの影響も重要である。高橋は日露戦争に伴う外債募集の交渉を行う過程で、日露戦争中は主としてイギリスに、第一次大戦後は主としてアメリカに依存していることを知る。英米独仏の金融家は、日本がロシアに勝つための戦費の47%を用立てた。シフとウォーバーグは日露戦争中の日本の資金調達額の4分の1以上を引き受けたのである。ロシア海軍を粉砕した戦艦の大半は英国で作られたものだった。軍艦を動かす石油はシェル石油から購入したものであった。結局、高橋が得た教訓は、英米は日本が最も恩恵をうけている同盟国であるということだった。

そして、対華21ヶ条要求における加藤高明外相の対応に高橋が反対したことからもわかるとおり、日本は統一された中国との「自然な同盟関係」から利益を得ることができると、英米両国が考えているということであった。外国的圧力や借款、軍事介入により中国を分割することは、中、英、米、日の同盟国の関係を脅かすことに繋がる。高橋が首相在任中においてワシントン軍縮条約交渉に参加して示したように、英米を中心とする陣営に参加することで、日本は資本、市場、技術、天然資源、保護を手に入れることができた。英米との対立、日本独自の外交路線を提唱する勢力は、日本をこのような利益から遠ざけ、そして結局日本は勝つ見込みの無い戦いに突入するという災厄を自ら招いたのである。

更に、海外から借金をするのであれば、金融面の責任を果たさねばならないということもシフから学んだ重要な教訓である。高橋が1932年から35年にかけて財政政策を行ったが、長期的には日本は予算を均衡させる必要がある。海外における信用維持のためには軍事支出を抑制することが不可欠だった。軍事支出の拡大・膨張は、制御不能なインフレや戦争の危険を増し、英米中心の世界における安全な避難場所と著者が言う中国を危険に晒すことでもあったのである。

2010年10月25日月曜日

「デフレについての誤解」の誤解

 池田信夫氏が「デフレについての誤解」という題名でデフレについて書かれている。率直に言えば、氏が指摘している4点は新たな誤解を招きかねないものだ。取り急ぎ、議論を敷衍しながら、「デフレについての誤解」の誤解について論じることにしよう。

1.デフレが不況の原因である。
 まず確認しておく必要があるのは、池田氏が言うように、デフレと不況とは同義語ではないということだ。IMFや内閣府におけるデフレの定義は、「2年以上継続して物価が下がっている状況」である。この定義からわかるのは、デフレは定義上、景気の悪化を含んだ概念ではないということだ。
 勿論、デフレは実質ベースの経済指標を上昇させることで経済に悪影響を及ぼす。名目賃金が下方硬直的であれば、デフレの進展は実質賃金の高止まりを生み、名目利子率がゼロ近傍であったとしてもデフレにより実質利子率は上昇するため、企業の投資は手控えられる。2002年以降の景気回復局面は、外需が好調でありデフレの進展による内需の停滞を好調な外需が打ち消す形で生じた。
なお、実質資産が高まることで消費が増加するという効果(ピグー効果)の妥当性は、控えめに言ってもはっきりした結論は得られていない。更に池田氏は1%程度のマイルドなデフレは測定誤差の範囲内と述べるが、1%程度のマイルドなデフレが測定誤差の範囲内という議論が我が国を含む中央銀行でなされた事実を私は寡聞にも知らない。
そして、最近の動学マクロ理論による理解として、t期の物価上昇率を左辺、t-1期におけるインフレ予想とt期の需給ギャップの2つの項を右辺に配した式が記載されているが、これはフォワードルッキングを一つの特徴とした最近の動学マクロ理論とは明らかに異なるだろう。
また、この式を提示することで、なぜt期の物価上昇率がGDPギャップのみで説明できるとするのか全く意味不明である。仮に右辺の項を説明要因と解釈した場合、池田氏が指摘している式そのものには右辺の項が2つ付されている。つまり、一つには1期前のインフレ予想、そしてもう一つは当該期のGDPギャップが、当該期のインフレ率を決めるという式であるからである。インフレ予想をなぜ無視するのか不明である。
 New IS-LMモデルで同種の話を説明すると、New IS-LMモデルの最もシンプルな形は以下の三つの式から構成され、3本の式から成るモデルで決まる変数(内生変数)は、GDPギャップ、インフレ率、名目短期金利である。外生変数(モデルの体系外で決まる変数)は、3本の式の確率的ショック、ターゲットとなるインフレ目標値である。

 (1)New Keynesian IS曲線
・GDPギャップ=f(将来のGDPギャップに関する期待値、名目金利-期待インフレ率、IS曲線に関する確率的ショック)

(2)New Keynesian Phillips 曲線
・インフレ率=f(期待インフレ率、GDPギャップ、NKP曲線に関する確率的ショック)

(3)金融政策ルール(テイラールール)
・名目金利=f(インフレ率-インフレ目標値、GDPギャップ、金融政策ルールに関する確率的ショック)

 内生変数である、GDPギャップ、インフレ率、名目短期金利は説明要因にもなり、被説明要因にもなりえる。更に外生変数の変化はこれら内生変数に影響を及ぼす。結局、インフレ率は原因でもあり結果でもあって、「デフレは不況の結果であって原因ではない」という理解は誤りなのである。

2.デフレの原因は「お金の不足」である
 1.についてと同様だが、物価上昇率を決めるのはGDPギャップのみではない。付言すれば、デフレ脱却国民会議で説明されている話は、モノに関する市場と貨幣に関する市場の2つを考えた場合に、モノに関する市場の供給超過は、貨幣市場における需要超過(よって貨幣市場の需要超過を緩和すべく貨幣供給を増加させる事が必要)であるというワルラス法則に基づく議論を述べただけでこれ自体が間違いではないだろう。
そして、「デフレの罠」として記載されている点も疑問とせざるをえない。自然利子率は実質利子率、政策金利は名目利子率である。仮に政策金利がゼロ近傍で自然利子率がマイナスとなっていても、インフレ期待を高めれば、実質利子率を自然利子率の水準まで下げることができる、というのがクルーグマンやエガートソン・ウッドフォード等の議論の趣旨だ。池田氏の説明は名目と実質を混同している。

3.日銀の金融緩和が足りないからデフレになる
 池田氏の議論では、日銀のバランスシートの名目GDP比から日本の緩和度合いが世界最大だと論じる。だが、バランスシートの名目GDP比が高いことは、日本がデフレに陥っていることの結果でしかない。金融緩和の度合いを議論するのならば、政策金利を一定期間でどれだけ低下させたか、更に量的緩和については、一定期間で量的指標をどれだけ拡大させたのかが問題であって、このいずれにしても不十分であったというのが、90年代以降の日銀の金融緩和に関する議論の大勢だろう。

4.日銀はインフレ目標を設定していない
 池田氏の説明は、日銀の物価安定の「理解」を「目標」と混同しており、誤りである。間違いだと思われるのなら、白川総裁に聞いてみれば良いのではないか。日銀はインフレ目標を設定したとは口が避けても言わないだろう。

2010年10月22日金曜日

米国より危険な日本の現状

オーケー。皆も知ってるよね。本日のポール・クルーグマン米プリンストン大学教授のNTのエントリ(Just Call Him Bernanke-sama)では、アメリカの物価の動きを90年代の日本のそれとなぞらえて、アメリカが日本のような状況になるのではと論じていることを。
でもね、僕は言いたい。クルーグマンさん、あなたの見解は甘すぎる。金融政策の孤独なフロントランナー、あのShirakawa-samaを擁する日本では、あなたの国よりも、そして90年代の日本よりも更に深刻な事態が生じているんだよ。
以下の図表を見てほしいんだ。これは、大恐慌時点のアメリカの物価の動きと、現代のアメリカの物価の動き、そして日本の物価の動きを比較したものだ。そして単に比較するだけでは面白くないから少し仕掛けを考えた。そう、大恐慌時点のグラフは、アメリカがあの忌まわしい金本位制から離脱して本格的な金融緩和に乗り出した時期-1933年6月-から量的緩和が成果を挙げた1937年12月までの時期を対象としている。そして、現代のアメリカと日本のグラフは、リーマン・ショック以降、アメリカを含む中央銀行が必死に大規模な緩和を乗り出した時期-2008年9月以降-の物価の動きをみているというわけだ。
これで何がわかるだろうか。まずアメリカの物価の動きは、大恐慌の時と同じくらいか、若干良いということだ。もちろん、物価変動が大きかった大恐慌とデフレ懸念はあっても未だマイルドなインフレが続く現状とを比較考量すれば、これを持ってアメリカは安心だと言えないだろう。大恐慌並みだという見方に立てば、この感じだと暗黙に目標としている物価の伸びに復帰するためには後数年かかりそうという見方も成り立つかもしれない。
でも他の2つとは明らかに異質な動きをしている緑色のラインが見えるだろうか? そう、これがリーマン・ショック後の日本なんだ。さすがにヤバいと思ったのか、Shirakawa-samaも遅ればせながら金融緩和に踏み切ったけど、よく言って見掛け倒しの緩和だし、経済学者の中には今の現状が日本の実力を示しているという言いだす人もいる始末。困ったものだね。
今を生きる日本人として言わせてもらえば、Bernanke-samaはまだまだマシだし、大恐慌に匹敵するショックの中で10年前の日本と比較できるアメリカはまだマシなんだよ。アメリカが早く回復してくれることを切に祈っているし、事実弾薬庫の弾を派手にぶっ放す用意もあるように思うけどね。


2010年10月5日火曜日

日銀政策決定会合についての雑感

2010年10月5日、日本銀行は同日の政策委員会・金融政策決定会合において、大きく三つの措置からなる金融緩和策を実施すると発表した。まずは発表内容を敷衍しながら、簡単に雑感を書いてみよう。
金融緩和策の内容は、まずは金利誘導目標の変更であり、日銀が政策金利として誘導対象としている無担保コールレート(翌日物)を、これまでの0.1%から、0~0.1%程度で推移するように促すということだ。
為替介入については以前メモ書きしたが、現行の為替介入の枠組みでは、中央銀行が新たなアクションを起こさない場合には、為替介入は緩和効果を伴わない不胎化政策となってしまう。政府が日銀から一時的に調達した円を速やかに返済しない場合には、その間だけ日銀引き受けと同じような状況が生じるが、この場合には(他のオペレーションによる当座預金残高への影響が仮に無いものとすれば)金融緩和によって政策金利には下押し圧力がかかる。今回の措置は、このような擬似的な緩和圧力に対する政策金利の下押しを許容するという意味合いを持ったものと理解した方が良い。
二番目の措置は、「中長期的な物価安定の理解」に基づく時間軸の明確化についてである。「中長期的な物価安定の理解」とは委員の大勢が中長期的に望ましい物価の伸びを「消費者物価指数の前年比2%以下のプラスの領域で、委員の大勢は1%程度を中心と考えている」というものだ。
ここから「CPIで1%の物価上昇率を達成するまで、無担保コールレートを0~0.1%で推移させる」という意味でとれば、以前の量的緩和政策時よりもCPIの水準が上がっているために強力なコミットメントの表現という理解も可能だろう。しかし、そもそも「中長期的な物価安定の理解」にゼロ%が除外されたからといって、これが明確なコミットメントであるかどうかとは別問題である。
そもそも日銀は「中長期的な物価安定の理解」を目標とはしていない(言葉通り「理解」である)。そしてこの理解が目標と同義であり、その値が1%であったとしても、日銀が言う「物価の安定が展望できる状態」とは何かが明らかではない。つまり、コミットメントの中身が依然不透明な状況の下での時間軸の明確化なのである。
三点目の措置。資産買入等の基金の創設である。これは、多様な金融資産の買入れと固定金利方式・共通担保資金オペを行うためにバランスシート上に基金を創設するというものだ。将来の出口(切り離し)を考えた上での措置なのかもしれない。多様な金融資産の買入れは賛成だし、本措置に伴う長期国債の買い入れに関しては日銀券ルール(長期国債買入れ残高は銀行券発行残高を上限とすること)の対象外であることも賛成だ。尤も日銀券ルールを存続させる意味は無いと思うが・・・。
だが、問題はその規模である。5兆円とは少ない。というのは直近時点のマネタリーベース(平残)は98兆円であり、5兆円はマネタリーベースの5%であること、そして買入れの開始から1年後を目処に5兆円の買入れを完了させるという記述があるためである。これはマネタリーベースの5%程度の規模の金融緩和を1年かけて行うという意味であって、「思い切った措置」とのふれこみの割には期待はずれの内容である。デフレが懸念される米FRBのマネタリーベース前年比は17%程度であるが、これは量的緩和政策時の我が国のマネタリーベースの伸び(15%程度)を上回る。そして、直近時点の日銀のMBの前年比は5.8%なので、仮に5兆円の買入れを1ヶ月かけて行ったとしても米FRBのマネタリーベースの伸びはおろか量的緩和時のマネタリーベースの伸びにも届くことはない。いわんや1年、といったところか。結局、敢えて言えば買取り額が10倍であっても違和感はない水準だろう。
更に、緩和効果を高めるには、できるだけ貨幣(マネー)から遠い資産(中長期のもの)でかつ残存期間が長い資産を購入することが必要だが、今回買入れることを検討する長期国債、社債の残存期間は1~2年程度である。1年間で残存期間1~2年の長期国債・社債を買い取るのならば、5兆円という買取り規模の効果は更に小さくなることは必定だ。
以上、簡単に日銀が新たに決定した三つの措置について、概要と雑感を書いてみたが、金融緩和策の中身を子細に見ると、「見掛け倒し」の緩和策であることは明白だろう。勿論やらないよりはましだが。楽観的に考えれば、今回の措置は今後行うであろう量的緩和策への地ならしという見方もできる(?)のかもしれないが、過去の経緯を考えるとしぶしぶ対応したのではないかと思わざるをえない。
本日の金融緩和の決定は、事前報道とは大きく異なるものであり、市場にサプライズをもたらすものであった。タイミングをあわせて少額でも為替介入を行うこともありえたのではないか。
今回の日銀の政策決定の背景には、政府の2兆円程度といった過去最大規模の為替介入や、日銀法改正の可能性といった圧力もあるだろう。非伝統的政策に足を少なからず踏み入れる際には、政府のリーダシップとバックアップが必要だ。為替介入以降、為替レートは小幅に上下しつつ83円台を推移しているが、現状の為替レートを維持することが為替介入の目的ではなかったはずだ。政府が断続的に介入を行い、更に日銀が今後弾力的に政策を変更する端緒となればというのが思いである。

2010年9月21日火曜日

為替介入についてのメモ

周知の通り、9月15日(水)に政府は東京外国為替市場で円を売りドルを買うという形で為替介入を実施した。為替介入が実施された後は82円台だった為替レートは85円台まで急落し、その後85円台半ば~後半で推移している。
確かに3円程円安にふれたという事実からすれば、為替介入には一定の効果があったと言えるのかもしれない。だが、85円台半ばという水準はほぼ1ヶ月前の8月半ばの水準に等しく、ゆきすぎた為替レートを是正するという本来の目的からすれば未だ不十分であると言えよう。
勿論、為替介入の効果を現時点で結論付けるのはいささか無謀だと思う。以下では簡単に為替介入についてまとめつつ、判断の際の視点として重要だと思うポイントについてまとめてみることにしよう。
1.為替介入の仕組みについて
現在の為替介入の仕組みについては既に各所でまとめられている。一言で言えば、現在の仕組みでは自動的に不胎化となってしまいマネー(円)は増えないため、介入が及ぼす効果は限定的だろう。ただ、決済のタイミングもあるため、日銀が保有した円をロールオーバーすることで当座預金残高増という状況が短期的に生じることはあり得る。そして、取引の各過程に携わる主体のポートフォリオが変わるため、変化したポートフォリオを再調整(リバランス)することで、資産価格や金利は変化する可能性もある。但しこの効果はプラスもマイナスもあり得るので現時点で明確な効果がありとは言えないだろう。
余談ながら、為替介入自体は73年のフロート制移行後度々行われてきた。この意味で別段特別な政策ということではない。勿論、金融政策で議論される伝統・非伝統政策とも別物である。更にポートフォリオリバランス効果自体も伝統的金融政策・非伝統的金融政策に関わらず生じるものだ。今回の為替介入に特別な意味を付け加える議論もあるのかもしれないが、そうではないことを言い添えたい。
2.為替介入の効果を判断する際のポイント
私見では、a:介入の規模、b:対外要因を含む環境状況、c:金融政策の連携、の三つが為替介入の効果を判断する際のポイントだと考える。
まず介入の規模については初日(15日)で2兆円程度という規模は過去最大規模である。今後については不明だが、円売・ドル買介入を行った99年、01年、02年の介入総額が3兆円~4兆円の範囲内であることを考えれば、上々の規模と言えるだろう。今後を注視したいところである。
次に対外環境についてだが、99年、01年、02年の場合はドル安の地合で、ドル高を是認する環境には無かったと考えられる。ドル高是認環境もしくは米国金利が高まるという環境が加われば、介入の効果は高まるだろう。
そして最後に金融政策との連携である。99年、01年、02年の場合は不胎化がなされており、金融政策との連携はなかった。今回の為替介入につき日銀は「放置する」と語っている。現状の仕組みが自動的に不胎化となる事を考えれば、今回も同様の行動を日銀はとっているということだろう。
さて、円売・ドル買介入で重要な経験は03年~04年の溝口・テーラー介入の経験だろう。上の三つの視点に即して述べれば、介入規模は32兆円、対外環境はドル高容認環境、金融政策との連携は、偶然にも量的緩和政策が実行されていたこともあり、得られた円の一定割合は吸収されずに市中に残り、それがマネー増をもたらすことになった。つまり、3つのポイントを満たした事で一定の効果があったということだろう。
3.為替介入を「ビックイベント」とするために何が必要か
理屈上、円売・ドル買介入ならば、我が国は際限なく円を発行し介入を行うことが可能である。理想としては、溝口・テーラー介入の規模と同程度の介入を行うとともに、ゼロ金利政策への移行、日銀券ルールの撤廃を行った上で、2%~3%のインフレ率にコミットするインフレーションターゲット付き量的緩和政策を行ってほしいところだ。
長引くデフレから脱却するには、政府・日銀の「政策のルール」が明確に変わった事を人々が認識することが重要だ。為替介入というビックイベントが行われた現在、求められるのはビックイベントを梃子にしてレジーム転換をはかるために金融政策を駆使すること、それを通じてデフレから脱却することなのである。