2010年11月30日火曜日

「激突討論!2011年の日本経済」(Voice12月号)を読む(その2)

 前回の(その1)から随分と日が経ってしまった。引き続き、(その2)では感想を交えつつ、財政、デフレの話題についてみていこう。

  3.財政
 財政については山崎養世氏と菊池英博氏のお二人が論じている。まず山崎氏の議論を少し敷衍しつつ財政の現状をまとめよう。
山崎氏が論じるように、日本の財政状態は敗戦直後の水準まで悪化している。2010年度予算では、1946年以来初めて、新規財源国債の発行額が一般税収を上回った。財政赤字は歳入と歳出の差である。歳出の中で特筆すべきは社会保障関係費の増加であり、10年度当初ベースの一般会計歳出総額に占める社会保障関係費のシェアは5割を超えた。この背景には高齢化があるが、高齢化は既に以前から見通されていた動きでもあり、寧ろ低成長の持続による税収の減少の要因が大である。
以上の推移の中で山崎氏は、国債発行の大幅拡大を指摘する。90年の国債発行総額は20兆円程度だったが、2009年になると158兆円にまで拡大している。公的年金が120兆円の資産を有し、ゆうちょ銀行・かんぽ生命による296兆円の資産はあるものの、負債を考慮すれば、公的年金はネットで債務超過、ゆうちょ銀行・かんぽ生命の純資産は10兆円程度である。国民の貯蓄率は2%に留まり、金融機関に流入する国民貯蓄は年8兆円程度、個人や日銀、外国人が保有する国債のシェアは低く、その大宗は日本の金融機関や年金がリスク資産への投資を止めて国債に投資することで支えられている。
このような現状をどのように考えれば良いのだろうか。山崎氏は、国民の資金を成長と税収を生むべき民間から引き剥がし、財政赤字を穴埋めするための国債に振り向けてきたことが成長と税収に致命的な打撃を与えてきたという。だが、この主張は誤りだ。
なぜかといえば、国民の資金を民間から引き剥がし国債に向かわせたのは、山崎氏が既に書いているように金融機関であって、別に国ではない。問題は、なぜ金融機関が低利の金利しか得られない国債に投資しているのかということだが、これは山崎氏が指摘するBISルールが原因というよりは「失われた20年」の中でデフレ予想が蔓延して、国債以外の資産への投資が手控えられたことが大きいだろう。政府が国債を発行するのは、それにより得た資金を歳出という形で支出するためでもある。税収の低迷と国債発行額の拡大という現状は、政府が国債発行により得た資金を支出しているものの、経済成長に結びつく(リターンとして結実させる)ことが出来ていないという側面も顕わにする。「失われた20年」の最中に断続的になされた財政支出は、長期停滞を払拭することは出来なかった。いみじくも山崎氏が指摘するように、政策当局の政策ミスが財政赤字の累増を招いたのだ。
次に菊池氏の主張を見よう。既に様々な論者が議論しているが、ギリシャの財政危機をみてとって日本も同様の状態に陥るという主張は余りにも日本の現状を無視している。菊池氏が述べるように、我が国を構成する政府の赤字のみを考慮し、貸し手である他の主体の黒字を無視するのは財政赤字の問題把握という視点からは望ましくないだろう。そして、我が国は世界最大の債券国であり、貿易は安定的な黒字で推移しているという点も重要なポイントである。
さて、山崎氏と菊池氏の議論の背景には共通の問題意識、つまり財政赤字を削減するためには経済成長を高めることが必要だという認識がある。
経済成長の必要性は同意だが、お二人が主張する個々の施策については異論がある。山崎氏は将来の資源・エネルギー・食糧危機に備えた国家戦略投資や、新エネルギー、食料・農業関連などのクリーンテック技術、自給持続を目指す環境未来地域の開発といった分野に、日本の年金や保険などの長期資金を振り向けることを提案しているが、これらは反対だ。理由は、将来資源・エネルギー・食糧の危機が生じるかは甚だ不明であること、政府が行うべきは個別産業へのターゲティングポリシーよりは、法人税減税やEPAの締結をはじめとする競争力強化策や、更にデフレから脱却し行過ぎた円高を是正するといった金融政策の方が遥かに効果は高いと考えられるためである。虎の子の長期資産を用いるのならば尚更だ。
そして山崎氏は財政均衡法の策定を提案しているが、増税の先鞭を付ける目的の財政均衡法の制定という趣旨はいただけない。経済変動を趨勢上の動き、つまり成長径路と景気変動といった循環径路に分けて考えると、日本の現状は失業率の高止まりや設備過剰、デフレの持続といった点からも明らかなように循環径路の問題が大きく影響している。この状況下で無理に財政を立て直そうとすれば、経済は更に悪化して財政健全化への道が遠のくことになるだろう。カネが無ければモノは買わず、将来に楽観的になれなければ投資は進まない。合理化を図り使途を明確にすれば、危機を認識した日本国民は納得してくれるのかもしれないが、残念ながらそれだけだ。問題はモノを買い、投資を拡大するといった形で需要が拡大し、経済成長が高まる方策は何かということなのである。山崎氏の国債バブル崩壊に伴う「危機の予言録」についてはもはや何も言うまい。
菊池氏の経済成長に関する方策の議論はどうか。菊池氏は財政政策の拡大こそが重要と説くが、大恐慌といった過去の経済危機に関する研究では金融緩和政策の有効性が実証されており、財政政策に関しては景気の下支え程度の効果しか無かったことが示されている。日本の「失われた20年」における財政政策の経験についてもしかり。勿論、これらの知見はこれまでの財政政策が大した効果をもたらさなかったのであって、新たな政策であれば効果を有する可能性はある。しかしそういった言及はない。
いみじくも両氏ともに、財政赤字を払拭するために日銀の国債引き受けを行うことを指摘しているが、この点は興味深く感じたところだ。

4.デフレ
 デフレに関しては藻谷浩介氏と安達誠司氏のお二人が論じている。藻谷氏の論説はネットでも注目され、多くの方が取り上げているようなので必要最低限に留めよう。藻谷氏は、人口変化が長期停滞に大きく影響していると論じる。そして、日本の就業者数の減少は小売販売額の減少と見事に符号しており、更に就業者数の減少は生産年齢人口の減少とが強い相関があることを指摘する。但し、生産年齢人口の減少が就業者数の減少に結びついたという証拠は無い。寧ろ長期停滞において失業率が高まったからこそ、就業者数は減少し消費も停滞したのではないか。
更に人口減少だから市場が縮むという主張は分かりやすいが、市場の規模は量と価格から決まる。マクロで言えば量と物価である。人口が減少しても量は減るが価格が低下するとは限らず、人口減で物価減少という議論は実際に妥当していないことは国際比較データから検証を行った安達氏の議論から明らかだ。安達氏は小売売上高と就業者数との関係を見ているが、2002年以降は生産年齢人口の減少が続いているにもかかわらず、小売売上高は拡大している。藻谷氏はこの点をどう説明するのだろうか。
最後に一言。藻谷氏の論説は、後半あたりから驚くべき展開を見せる。それは、藻谷氏が言う「デフレ」とは一般物価の下落を指すのではなく、個別財の価格低下を指すという言明だ。専門家ならば藻谷氏の言う「個別財の価格低下」を「デフレ」とは言わないだろう。定義が異なる話を「デフレ」という現象として論じ、それが一般の人々に流布・誤解させてしまったことは残念な事態である。既に「デフレ」については定義もあり、過去の議論は少なくともその定義に即して概ね展開されてきたと自分は理解している。読者や半可通の識者に「人口デフレ論」という耳触りの良い話を広め、これまで積み重ねられてきた議論を混乱に貶めることについて責任を感じてもらいたいところだ。さすがに『デフレの正体』という藻谷氏の著作の題名から、それが『個別財の価格下落の正体』を意味すると読むことは不可能だ。
そして、仮に「デフレ」が一般物価の下落だとして、「人口デフレ論」が正しいのならば、これほど日本経済にとって素晴らしい事はないのは安達氏が指摘するとおりだ。なぜかといえば、中央銀行が紙幣を発行し続け、財政赤字をファイナンスし続けてもインフレは発生しないためだ。どんどん人口が減少すれば良い。若年世代が少なくなっても紙幣増刷でインフレとなり量は減っても物価は上昇するので財政赤字も早期解消。先の山崎氏や菊池氏の議論など懸念である。痛快そのものだろう。残念ながらそんなことは起こりえようも無いのは、例えば高橋財政以降の財政赤字のファイナンスの拡大とインフレの亢進の経験を考えれば明らかなのだが。

2010年11月26日金曜日

高橋亀吉『大正昭和財界変動史』(上・中・下)、八田達夫・高田眞『日本の農林水産業 成長産業への戦略ビジョン』、太田聡一『若年者就業の経済学』

 東洋経済新報社創立115周年記念として、石橋湛山全集及び高橋亀吉著作集が復刊されています。高橋亀吉著作集として復刊されたものの一つが『大正昭和財界変動史』です。部分部分は図書館で読んだり参照したりしていた訳ですが、やはりここは日頃の不勉強を払拭すべく一念発起して通史として読んでおいたほうが良いのではないかと思いなおして、上中下三巻を買い込みました。
上巻は大正編、中巻及び下巻が昭和編という感じです。扱う時期は第一次大戦の好況から、わが国が戦時経済に本格的に突入する昭和15年あたりまでということで、現代の経済社会を考える際の格好の材料を提供していると感じます。三巻合計で2000頁にならんという本ですが、読み出があります。

次は八田達夫・高田眞両氏による『日本の農林水産業』。TPPに関する我が国の対応が先日話題になっていましたが、誰もが望むのは、日本の農林水産業が競争力を有し、生産性を高めることでしょう。経済政策、特に本書で提案されている規制改革(強化及び緩和の双方を含む)を行えば、既得権を失う人が生じるため、政治的に先送りしようとする誘惑が生じるわけです。よって改革とセットで激変緩和策を講じることが必要です。ただし激変緩和策とは、改革を徐々に行うことではないことも注意すべきでしょう。農業及び水産業について現状を纏めた上で、市場の失敗と政府の失敗を区分け・明示化して、経済分析を加えるという本書の体裁を見る限り読むのが楽しみな本です。恐らく、八田先生の『ミクロ経済学Ⅰ、Ⅱ』を読んだ方にとっては実践的な本書を読むことで更に面白いのではないかと感じました。


最後。太田聡一氏の『若年者就業の経済学』。本書は、爾来社会学や教育学の範疇で論じられることが多かった日本の若年雇用問題を、経済学の視点から概観しようという本です。分かりやすい筆致で非常に読みやすい本ですが、若年雇用がなぜ問題となってきたのかという点から始めて、若年失業の変化を失業フローや失業率格差の観点から分析し、更に世代効果といった話題に話が及んでいます。さらに、採用や労働者間の代替関係、地域における若年労働の動向、それから教育訓練、若年雇用政策の展開といった形で、労働需要面及び供給面の両面から説明がなされています。各章の末尾にまとめが付されているのも議論を整理する助けになります。

2010年11月25日木曜日

石橋湛山記念財団『自由思想』第120号

  頂戴しました。どうもありがとうございます。今号の特集は「石橋湛山賞」。若田部先生の石橋湛山賞受賞記念講演の模様と叶芳和、宮崎勇、相田雪雄各氏による受賞作の講評、そして田中先生による「若田部昌澄さんの人と仕事」が収められており、こちらも興味深く拝読させていただきました。詳細な内容については是非お読み頂ければと思いますが、おめでとうございます。

 非常にかいつまんで書いてみますと、若田部先生の石橋湛山賞受賞記念講演は、大不況から現代に至る長い歴史の中で経済危機のエピソードを早がけで見せるという受賞作『危機の経済政策』のコンセプトや、管理された実験が出来ないからこそ歴史に学ぶという視点、更に、石橋湛山とは何者かという点や湛山ならば危機にどう立ち向かうのかという話を現代の状況と大恐慌当時との類似性に着目しつつ論じるというものです。なお、講演の模様は経済倶楽部の講演録にも掲載されています。

 田中先生による若田部先生の人と仕事に関する解説文では、経済理論における「知識」の役割、つまり「知識」が経済発展にどうかかわるのかという視点に基づくジョン・レーの再解釈という若田部先生の研究者としての原点とも言える業績が最初に紹介されます。
 更にこの「知識」の視点が実際の経済論戦に加わることで深められ、『経済政策形成の研究』におけるアイディア・トラップ、なだれ現象といった、知識が意思決定に及ぼす影響についての考察、そして受賞作『危機の経済政策』や『「日銀デフレ」大不況』といった著作で指摘される、悪しき知識が日本の経済成長を内生的な形で阻害していくメカニズムの解明に繋がっていくという解説は興味深く読みました。最後に語られる話も若田部先生への思いが吐露されていて読んでいる人間もうれしくなる文章ですね。

 自由思想を頂戴したのは、原田泰さんが石橋湛山賞を受賞された時以来です。目玉でもある「論壇季評」の出席者各氏の丁々発止なやりとりは変わらず、読んでいて小気味良く面白い。勿論内容については言いたいことがあるのだが・・・無粋なので止めておきましょう。余談ながら一言。拙著を各氏が話題にされたらどんな評価になるのだろうか、そんな本を書きたいと思いますね。

『自由思想』のバックナンバー及び石橋湛山記念財団についてはこちら(http://www.ishibashi-mf.org/bulletin/index.html)をご参照ください。

2010年11月24日水曜日

各種マクロ計量モデル(メモ)

 
DSGEモデル周りについて興味深いエントリを矢野さんが幾つかされており(例えばこことかここ)、中々キャッチアップするのが大変ではあるのですが、以下はもう少しDe Macro(松尾先生風味)なマクロ計量モデルや折衷型(ハイブリッドタイプ)の論文も含めつつメモ代わりにまとめてみます。ほとんどのペーパーはネットで手に入れられる筈。

1.全般的な話
 De Macroなマクロ計量モデルは少なくとも我が国の政策分析においては現役です。なぜなのかは色々と理由があるのですが、直感的に分かりやすく扱いやすいということに尽きるのかなと思います。各官庁等で用いられているモデルについては以下が参考になるかと。後はDe Macroなバックワードルッキングモデルではなく、De Macroな意匠を維持しつつフォワードルッキングを取り入れたモデル(伴先生らが開発しているもの)もありましたね。そしてDSGEモデルといったところでしょうか。

1)De Macro & あれこれ
・三菱UFJリサーチ&コンサルティング(2009)「政府の経済・財政に関する各種試算の整合性の検証についての調査」、参議院財政金融委員会調査室委託調査

2)ハイブリッド型モデル
・伴金美他(2002)「東アジアリンクモデルの構築とシミュレーション分析」、経済分析第164号、内閣府経済社会総合研究所のサーベイ部分

3DSGEモデル
・日本銀行(2008)「中央銀行におけるマクロ経済モデルの利用状況」、日銀レビュー、2008--13(上記に加えて、DSGEモデルを扱った日銀レビューシリーズも参照のこと)
・佐藤綾野(2009)「各国中央銀行のマクロ計量モデルサーベイ」、ESRI Discussion Paper Series No.211.
・矢野浩一(2008)「DYNAREによる動学的確率的一般均衡シミュレーション~新ケインズ派マクロ経済モデルへの応用~」、ESRI Discussion Paper Series No.203.
Fujiwara et al(2005) ”The Japanese Economic Model:JEM”, Monetary and Economic Studies, vol.23, issue 2, pages 61-142のサーベイ部分
Christopher J. Erceg & Luca Guerrieri & Christopher Gust, (2006), "SIGMA: A New Open Economy Model for Policy Analysis," International Journal of Central Banking, International Journal of Central Banking, vol. 2(1), March.のサーベイ部分

2.各国のモデル
1)日本
・一上他(2009)、「ハイブリッド型日本経済モデル:Quarterly-Japanese Economic ModelQJEM)」、日本銀行ワーキングペーパーシリーズNo.09-J-6.
Fujiwara et al(2005),”The Japanese Economic Model:JEM”, Monetary and Economic Studies, vol.23, issue 2, pages 61-142

2)米国
 以下はFRBが構築している各種モデルがメイン。まずハイブリッド型のマクロ計量モデルとして、FRB-USモデル(一国モデル)及びFRB-lobal(多国モデル)の二つを、DSGEモデルとして、FRB-EDOモデル(一国モデル)及びSIGMA(多国モデル)の二つの内容といったところ。

Brayton, Flint and Tinsley1996,”A Guide to FRB/US:A Macroeconomic Model of The United States”, Finance and Economics Discussion Series 1996-42, FRB.
Levin, Rogers and Tryon1997,” A Guide to FRB/GLOBAL,” Board of Governors of the Federal Reserve System IFDS Working Paper, No.588.
Edge, Kiley and Laforte(2007),”Documentation of the Research and Statistics Divisions Estimated DSGE model of the U.S. Economy:2006 version”, Finance and Economics Discussion Series 2007-53, FRB.
Christopher J. Erceg & Luca Guerrieri & Christopher Gust, (2006), "SIGMA: A New Open Economy Model for Policy Analysis," International Journal of Central Banking, International Journal of Central Banking, vol. 2(1), March.

3)英国
 ハイブリッド型のマクロ計量モデルとしてBOEが構築しているBEQMThe Bank of England Quarterly Model)。

Harrison, R., K. Nikolov, M. Quinn, G. Ramsay, A. Scott, and R. Thomas, (2005),"The Bank of England Quarterly Model", London: Bank of England.

4)欧州
DSGEモデルとして、ECBで開発されたQUEST Ⅲ(多国モデル)及びNAWM(多国モデル)。

Kai Christoffel & Gunter Coenen & Anders Warne, (2008), "The new area-wide model of the euro area - a micro-founded open-economy model for forecasting and policy analysis," Working Paper Series 944, European Central Bank.
Ratto, Marco & Roeger, Werner & Veld, Jan in't, (2009), "QUEST III: An estimated open-economy DSGE model of the euro area with fiscal and monetary policy," Economic Modelling, Elsevier, vol. 26(1), pages 222-233, January.

5)カナダ
ToTEM(Terms of Trade Economic Model:一国モデル)及びBoC-GEMThe Bank of Canada’s Version of the Global Economy Model:多国モデル)。

Murchison and Rennison(2006),”ToTEM:The Bank of Canada’s New Quarterly Projection Model,” Bank of Canada Technical Report series, No.97.
Lalonde and Muir(2007),”The Bank of Canada’s Version of the Global Economy Model(BoC-GEM),” Bank of Canada Technical Report series, No.98.

6IMF
MULTIMOD Mark Ⅲ及びGEM

Laxton, et al.1998,”MULTMOD Mark Ⅲ The Core Dynamic and Steady –State Models,”Occasional Paper 164. IMF
Bayoumi et al.2004,”GEM: A New International Macroeconomic Model,” Occasional Paper 234,IMF.

2010年11月23日火曜日

春名徹『細川三代 幽斎・三斎・忠利』

甚だ失礼な話なのかもしれないが、息抜きとして自分がよく読むのが歴史物である。春名氏のこの書籍は、細川氏三代の軌跡を当時の文書を交えつつ、時間を経糸(たていと)に、人と事件を緯糸(あやいと)にしてタペストリーを織り上げるようにして書かれたものである。
細川三代の軌跡は、信長・秀吉・家康という稀代の三傑とのかかわりを抜きにして語ることは不可能だろう。ただし本書が注意している点は、よくある歴史の概念と細川氏のかかわりを無理にこじつけようとしない点だ。そこで注意されるのが、先程の経糸と緯糸の視点と、人とのかかわりとして、細川家に残された幾多の手紙である。随所に様々な人々の間のやり取りが紹介されていて、解説とともに興味深い。
細川三代というテーマは大河ドラマの題材にもなりえると思うのだが・・・・どうなんだろうか。余力があれば感想を書いてみたい書籍の一つである。

2010年11月22日月曜日

「激突討論!2011年の日本経済」(Voice12月号)を読む(その1)

 先日の竹森俊平氏の論考に引き続き、特集の中身について紹介しつつ感想交じりでまとめておこう。テーマは7つであり、円高、日本株、財政、デフレ、成長戦略、米国経済、新興国というものだ。いずれも2010年に話題になった話であり、来年も引き続き話題となるだろう。(その1)では円高と日本株の二つについてみていこう。

  1.円高
 最初の点は円高である。円高は現在ややその勢いを弱めているものの、83円台が続く状況であり、楽観視することはできない状況だ。このテーマでは榊原英資氏と北尾吉孝氏が論考を寄せている。

榊原英資氏は、現在は円高というよりもドル安の状況にあると説く。だが二国レートが円とドルといった二つの通貨の交換比率である以上、この区分は意味がない。加えて円高が進む状況では円が独歩高の状況だったが、ドルはそうとはいえない。榊原氏の論説はこの意味で事実認識を欠くものである。榊原氏は史上最高値である一ドル=7975銭を超えると、70円台が定着すると説くが、今後そのような状況が生じるのだろうか。現段階では判断がつかないところである。

榊原氏は現在実質的なゼロ金利の状態にあり、すでに流動性は十分すぎるほど提供している、にも関わらず緩やかなデフレが続いているのは、従来の経済理論で説明できないことが生じているためだという。そしてそれは何かといえば、グローバリゼーションの進展による日本と東アジアの統合であるという。そして円高は大きなメリットをもたらすという。なぜかといえば、今後世界的な獲得競争が進んでいるのはエネルギーや食料であるが、円高はエネルギーや食料を購入したり、資源開発を行うために有利であるというのが理由である。

だが榊原氏の議論は全て誤りだ。まず実質的なゼロ金利という話だが、実質的なゼロ金利というのが日銀の政策金利が実質的にゼロということならそうかもしれない。しかし実体経済に影響するのは名目金利ではなく物価の影響を考慮した実質金利である。デフレが進む中で実質金利はゼロではなく、政策金利のベースで日米欧を比べてみても日本の実質政策金利はプラスであるが、欧米諸国の実質政策金利はマイナスの水準だ。

流動性の提供についてはどうか。日本銀行は十分すぎるほど流動性を提供しているというが当座預金残高の伸びは5%から10%の枠内で推移しており、リーマン・ショック以降金融緩和を行った形跡は無い。一方欧米諸国の金融緩和はバランスシートを2倍・3倍にする急激なものだ。もしかするとマネーストックの名目GDP比が各国と比較して高いことを言っているのかもしれない。しかしマネーストックの名目GDP比はマクロベースのマーシャルのk(貨幣乗数の逆数)を意味しており、これが各国と比較して高いのは、マネーがマネーとして需要されていること、つまりデフレに陥っていることと同義である。マネーをマネーとして溜め込もうとするから、投資や財を購入するという需要が生じない。流動性が十分提供されていないからこそデフレが生じているのだ。

更に榊原氏がデフレの原因として挙げている日本と東アジアの統合という原因は、東アジアとの統合が進む他の東アジア諸国でなぜデフレが生じていないのかを説明できない。我が国の貿易がGDPに占める割合は東アジアのほかの国々よりも小さい。よって他の東アジアの国々よりも(仮にあるとしても)デフレの影響は小さいはずだ。さらに貿易のメリットを示すのは交易条件だが、円高と交易条件の変化はリンクしない。確かに円高はエネルギーや食料品の価格を自国通貨で安価にして輸入を進めるという利点を持つが、マクロ全体の交易条件をみると、直近では円高が進み、交易条件の悪化が生じているという状況である。つまり大きなメリットなど少しも生じていないのである。
 
  北尾氏の主張はどうか。まず実質実効レートの動向から見て円はそれほど高くないという説を否定する点は自分も同意する。補足すれば、実質実効レートを見る際には、物価の影響を考慮した名目実効レートも合わせて見る必要があり、名目実効レートは過去最悪の円高であることを忘れるべきではない。そして名目実効レートが実質実効レートを上回るのは、他国と比較して我が国のデフレが進んでいることを意味するのである。交易条件と実質実効レートの動きがリンクしないこと、円高は日本の引き締め的な金融政策が原因であるとの指摘はそのとおりだ。なお、北尾氏の円の国際化に関する議論は兎も角として、自国の資産を有利な形で投資することは必要だろう。

2.日本株
 次は日本株の動きについてである。円高が一服するにつれ日経平均は1万円台を回復した。日本株はどう動くのか。北野一氏と倉都康行氏が論じている。
 
 まず北野氏の議論をみよう。北野氏は先進国で生じている債券バブル(債券価格の上昇と金利の低下)は先進国の「日本化」懸念を体現しており、これが行き過ぎであること、先進国の日本化懸念による名目長期金利の低下とデフレが日本の実質金利を高止まらせて、これが日本株を下げる要因として働いていると述べる。昨今のわずかばかりの円高修正と株価の動き、債券市場の動きは北野氏の議論が正しいことを意味しているように思える。だが、「日本化」に関するバーナンキの議論を援用した説明と、米国頼みの現状という視点は疑問である。

 ひとつは北野氏が言う、「株式への要求リターンは、PERを見れば分かるように、世界的に一つの値に収斂している」という議論だ。容易に分かるように、主要国の株価収益率をグラフにとると世界的に一つの値になど収斂しておらず、1119日の世界主要市場の株価収益率はインド/SENSEX18.85倍、米国/ナスダックは18.57倍、日本/日経22517.8倍、中国/上海は16.19倍であり、これらの国の株価は割高である。ヒストリカル・データから月次のPERを見ても、2007年半ばから201011月の日経225JASDAQといった指標のPER15倍を切っておらず寧ろ割高であるといったほうが良い。一方でNYダウは15倍を割り込んでおり割安といえる。世界の株価収益率が一つの値に収斂するという指摘が理論的な視点の話なのかは不明だが、統計を見る限り寧ろバラバラで日本の平均株価は割高かやや収益率が高いというのが現状である。日本の平均株価の収益率が割高であり、世界的に収斂した一つの収益率を投資家が求めているのならば、日本の実力を下回る水準を投資家は求めているのではないだろうか。自分の理解不足なのかもしれないが、統計データを確認する限り、北野氏のこの立論は誤りといえるのではないか。

もう一つの疑問点は、潜在成長率が概ね自然利子率と等しいという指摘である。自然利子率が潜在成長率と等しいという指摘は、長期の自然利子率=(相対的リスク回避度×技術進歩率)+時間選好率という関係式から、相対的リスク回避度を1とし、技術進歩率を潜在成長率と等しいとし、さらに時間選好率をゼロとした場合の話である。だが自然利子率について論じるのであれば、短期自然利子率=自然産出量変化率+需要ショックも考慮すべきで、サブプライム・ショック以降の世界経済に生じたのが急激な需要の低下であったことを考慮すれば、自然利子率の低下は潜在成長率の低下ではなく急激な需要低下によるものと見るべきだろう。更に、潜在成長率は生産性と労働力人口、資本投入の伸びで決まる。労働力人口が減るからといって資本が増加すれば良く、資本生産性を高めることでTFPを高めることを意図していけば、潜在成長率を高めることは可能であって悲観する必要はない。デフレが構造問題であるという指摘は、構造問題とみなされるものが、需要低迷が続いた結果として生じていることを無視しているのではないか。
 
  さて倉都氏の議論を見よう。倉都氏は、日本株の低迷は、経済の構造的需給ギャップを反映したもの、つまりは供給過剰であって需要不足ではない経済状況が長く続いていることにあるとする。そして、それは米国という金融化経済を通じて異様に肥大した消費水準を適正水準とみなして生産を続けてきた「先食い経済」のつけを表現したものに他ならない、と指摘する。

まず「供給過剰であって需要不足でない経済状況」が長く続いたという指摘だが、ある時点から供給過剰となる状態が発生するのは、突然生産性が向上した状態を指すのだろう。しかし我が国の長期停滞の原因仮説として、生産性が向上したという仮説は残念ながら存在しない。そして報告されている実証研究を見ても倉都氏の議論を補強する材料は見当たらない。関連して、供給過剰には人口減少という内需需要変化を読みきれなかった経営的失態が影響したとあるが、人口減少が生じたのは2004年のことであって90年代以降の長期停滞を人口減少で説明することはできない。更に長期停滞期の成長率を要因分解すると、生産年齢人口変化のGDP成長率に占める寄与はわずかであり、労働投入という視点では失業率の悪化といった需要変化の要因がより大きく影響している。つまり、倉都氏が原因としてあげている点は誤りなのである。
 
  お二人の視点を批判するだけではフェアでないので、自分の考え・視点を述べよう。自分は日本株の動きが債券価格の上昇と金利の低下という現象(これを債券バブルと呼ぶべきではないと思うが)と何らかの関係があるとする北野氏の議論には賛成する。

ここでポイントとなるのは長期金利の動きをどう判断するか、長期金利の動きの背後にある変動要因をどう仕分けして判断するかという視点だ。長期金利は、金融緩和が進めば低下し、将来の成長期待が高まれば上昇し、期待インフレ率が高まれば上昇する。米国はQE2に踏み切ったが、長期国債購入による金融緩和は、当初は長期金利の低下圧力として働くが、時間的なラグを伴いつつ、期待インフレ率を高め、投資需要の増加から成長期待を高めるという効果を有するだろう。つまりQE2が所定の効果を達成すれば長期金利は上がると考えられる。この点は日本の量的緩和の際にも実証的に確認されている事実である。 そして北野氏が指摘するとおり、現状の米国の投資需要は低迷しているが、これは行き過ぎの傾向が強く、OECD Economic Outlookの最新版でも指摘されているように今後投資需要は回復することになるだろう。そうすれば米国経済の回復により長期名目金利は上昇してドルレートの上昇圧力となりえるだろう。

 だが、円ドルレートという観点から見れば、ドルレートの上昇圧力が現状の円ドルレートをより改善する動きになるかは疑問である。なぜかといえば、現状のドルレートの動きを日米の金融緩和度合い(マネタリーベースの上昇率の差)と日米長期実質金利差で要因分解した場合、ほぼ日米の金融緩和度合いで説明がついてしまうためである。日本と米国の金融緩和の度合いを比較すると、明らかに日本の緩和度合いが緩慢であって、これが円ドルレートを高止まらせることになるのではないか。北野氏が指摘するように、米国が日本の二の舞になるようなリスクは小さいと考えるが、北野氏が指摘する構造デフレ要因ではなく日銀の金融政策が原因で、デフレを超えるほどの円安に結びつかないのではないかと考えられるのである。勿論リスク要因もある。それは倉都氏が指摘する米・中が抱える要因だ。だが、マクロで見た場合の成長率では米国は3%程度の実質成長に復帰していくという見方が正しいのではないか。

日本経済が復活するための重要なドライバーの一つが外需であり、外需で重要な影響を果たすのは、成長著しいアジア経済の需要にいかにキャッチアップするかという視点だ。為替レートを円安にして企業の先行き懸念を払拭できれば、それは企業の価格競争力の上昇にも寄与するし、成長期待から株価の回復も期待できるのではないだろうか。

2010年11月21日日曜日

植田和男編著『世界金融・経済危機の全貌』、ヌリエル・ルービニ、スティーブン・ミーム『大いなる不安定』

 リーマン・ショックというような急激なショックは生じていないものの、欧州の債務危機やインフレ率が1%を割り込む厳しい局面が続く米国といったように、世界金融危機の影響は特に欧米諸国において続いている。2007年夏場の危機の顕在化から数えると早3年が経過した現在、世界金融危機として我々が知りえたことは何か、課題は何か、そんなことを把握する手がかりとして以下の二冊にふれてみたい。

 まず一冊目は植田和男編著の『世界金融・経済危機の全貌』(慶應義塾大学出版会)である。先程、厳しい状況が続くと書いたが、危機の震源地であった欧米諸国は2009年4月以降概ね回復局面入りしたのは事実である。リーマン・ショック以降の急激な金融緩和策と財政政策のポリシーミックスが功を奏したことは、リフレーション政策の有効性(我が国ではどうもこれが認知されていないようなのは残念だが)が世界経済で改めて実証されたともいえる。これは特筆してよい。
だが、本書が言うように危機がはっきりと終息したわけではない。先進国では今後負のショックが生じた場合に何をすべきか、回復の寄る辺とも言える新興国経済にもリスクはあり、当然この二つが分断されている場合ではない。今後の世界経済の動きを考える際にも、現時点で何が判明しており、何が不明なのか、そのことから何が言えるのかを押さえることは大事だ。本書はそういった話題を考えるための一助になる。
本書は内閣府の研究プロジェクトの成果をまとめたものであり、論文集の体裁をとっている。内容については冒頭で編者の植田氏がまとめているが、今回の金融危機で論点として挙げられている話題がほぼ網羅されているといえよう。
一点目は、投資銀行の過度の競争を引き起こした背景として何があるのか、金融監督制度といったミクロ的な視点から見た場合の問題点は何だったのかという問題である。二点目は金融システム安定化策、財政・金融政策の動きとその評価である。各国が行った金融緩和策は現状どのように効いたのか、それは今後どうなるのか、スウェーデンと米国を例にとった政策対応から何が言えるのか、物価安定と金融システム安定という視点を国際金融の視点で位置づけた場合、国としての信用不安に世界はどう対応できるのか、更に財政政策に関しては、財政の維持可能性と今後の方向性といった話題がある。三点目として、国際的な視点から見た問題もある。危機の世界的な波及という視点で考えた際のアジアへの影響はどのようなものだったのか、当初の世界的な好況(勿論それは米国等、バブルが生じていた国々と日本のようにマイルドなデフレが続いていた国、高度成長局面にある中国という形でバラツキはあるが)の中で生じていたグローバル・インバランスが世界金融危機によりどう推移し、どこに向かうのかといった話題だ。
編者が指摘するように、中長期的な財政の維持可能性、物価安定と金融システムの安定をどのように政策担当者間で分担・協力して達成させるかという問題は、今後の世界の課題となりえるだろう。そして20年の停滞を経た我が国において、これらの問題はより深刻かつ喫緊の課題となりえるだろう。



 二冊目はルービニとミームが書いた『大いなる不安定』(ダイヤモンド社)である。著者の一人であるヌリエル・ルービニは今回の危機を予言した人物としても名高い。本書は今回の世界金融危機の背景と過程、そして今後を考える上での座標軸の一つとなりえる本だろう。
実は自分はこの本の言いたいことには不満がある箇所も多々あるのだが、著者が言う大いなる不安定がなぜ生じうるのかを、危機の経済学(ケインズ、ミンスキー、ハイエク、バジョット等々)の視点、バブル生成・崩壊と金融危機の歴史の視点、危機の生成過程という視点、現状の対策の視点、といった観点から包括的に論じたという点でも一読の価値はある。読みやすい訳とともに、(既読の方も多いと思うが)世界金融危機から早3年が経過した現状で読んでおいて損は無い書籍の一つだろう。


2010年11月20日土曜日

竹森俊平「漂流を始める世界経済」(Voice12月号所収)を読む

早月刊誌は12月号が刊行される状況となった。過ぎ行く月日の速度が増しているという思いが募る今日この頃。さて、2010年の日本経済も様々なことがあったわけだが、2011年に向けて現代の課題・視点ともいえる話題をどう見たらよいのだろうか。Voice12月号の特集「激突対論!2011年の日本経済」は、対論という形を取りながら同じテーマに即していくつかの視点を提供してくれる。既に内容はご存知の方が多いと思うので、感想を混ぜながら簡単にまとめておきたい。まずは竹森俊平氏の論説「漂流を始める世界経済」から見ていこう。

竹森氏の見立ては、次のようなものだ。まずユーロ圏。今年の半ばあたりからPIIGS(ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペイン)の一国、ギリシャの債務危機という形で表面化したが、ユーロ圏の危機が完全に終わったわけではない。危機は先送りされたのであり、2011年にはアイルランド政府が国債の借り換えを迫られることから生じる危機、2012年はギリシャが債務の減免を要求することにより生じる危機である。そしてPIIGS政府は急進的な緊縮財政を打ち出している。そしてドイツやフランス、オランダ、イギリスといった諸国も財政緊縮策を打ち出す(している)。ECBも例外ではない。この意味で欧州発のリスクはありえる。ただ財政再建路線を規定する経済の風向きが又変われば、景気刺激策を発動するだろうというものだ。では、問題はどこなのか。竹森氏の見立ては米国が二番底の懸念を最も秘めているということだ。理由としては、財政出動に伴うビルトインスタビライザーが機能不十分であること、オバマ政権が行った巨額財政政策が今年後半からほぼ効力を持ちえなくなること、ブッシュ前政権が行った所得減税が今年末で終了すること、といったものが挙げられる。

自分は今年前半にはオバマが打ち出した経済対策の追加策が何らかの形で出されるのではないかと思っていた。なぜかといえば、オバマの経済対策は今年前半に最高潮を向かえ、その後は大きく減少することが明らかだったが、未だ経済の回復は不十分であったためだ。しかし欧米諸国としてみたとき、株価、生産といった分野の回復度合いが(緩慢とはいえ)最も力強いのは米国であることには留意しておくべきだ。この背景には日頃脚光を浴びがちな金融政策に加えて財政政策もある程度の影響を及ぼしているのではないかと思う。結局、失業率の高止まりが続く中で、財政政策パート2は発動されていない。QE2が話題になる一方で、QE2の効果に否定的な経済学者・エコノミストがFRBバーナンキ総裁に質問状を送ったことが話題になったが、総需要の停滞が明白な中でなぜ財政政策が発動されないのか。

その答えは「政治」だと竹森氏は言う。周知の通り、民主党は中間選挙で大敗し、共和党の議員が多数の議席を獲得した。彼等共和党議員の経済思想が問題ということだ。共和党への支持は国民の意思でもある。「政府の肥大化は悪」とする国民の意思だ。だが、竹森氏が言うとおり、大規模な財政政策と金融政策が無効だったということではない。仮にこれらの政策を行わなかったら、米国は今の経済状況を維持しておらず、世界金融危機は最悪の局面に向かっただろう。だが、高止まりが続く失業率や緩慢な回復に苦しむ人々にとってはその事実が届かない。

竹森氏は、当初の危機が大恐慌ほど酷くはならないとみなされた根拠として二つの点を挙げる。一つは現代においてはケインズ的な景気対策の必要性が認識されているため、失敗は繰り返さないであろうということ、もう一つ、保護貿易戦争は発生しないであろうということだ。この二つの点が生じるか否かが、来年の世界経済の先行きを占うという意味で重要な視点であろう。

そして更に付け加えると、財政赤字が累積する局面で、更なる財政出動が求められる場合に、先進各国の政府がどのような対策を行うのか、何もしないのか、はたまた増税を行うのか。過去の経験では、以上の局面では財政政策と金融政策の一体化が必要だと告げている。そしてラインハートとロゴフの研究からは、債務負担の悪化が深刻化するのは、債務負担を恐れて経済政策を怠った結果としての低成長に基づくとの結果が得られている。このような知見がどこまで生かされるのか、果たしてアクセルを踏み込む勇気が政策当局にあるのだろうか。更に世界各国で明らかになってきている債務悪化の特徴は、新興国で以前話題になった対外債務ではなく対内債務の拡大であるという点は新しい傾向かもしれない。債務負担が拡大する局面で何をするかといった議論が来年は更に本格化するだろう。先進国の経済政策は加熱気味の新興国の政策対応と互いにリンクしながら、国際機関等の役割や規制・政策の見直しといった議論の深化にもつながるはずだ。竹森氏が言うとおり、2011年は世界的に政治の季節になるのではと思われる。

2010年11月19日金曜日

飯田泰之『ゼロから学ぶ経済政策』、日本経済新聞社編『政権』


まずは飯田さんの書籍。ご恵投頂きありがとうございました。既に事務家稼業さんの書評がありますので屋上屋を重ねるのは無粋な話ではありますが、飯田節全開の良書です。なぜ経済政策が必要なのかという目的を幸福と絡めて論じつつ、手段としての「政策の三本柱」足る成長政策、安定化政策、所得再分配政策について論じていくというスタイルは極めて王道だと思います。経済政策に関する議論の混迷の大部分は(プロもアマも含めて)この種の混乱から生じる所が大でしょう。コンパクトに必要な知識を短期間で得ることができる、まさに新書の醍醐味だと感じました。
個別の話題にもっと深入りしたい方は、著者があとがきで語るように『ゼミナール経済政策入門』に進まれれば良いでしょう。海外の政策事例との比較に基づいて考えたい方は個別の本に当たられれば良いでしょう。この本が訴えているのは、個別具体的な政策の話を考える時の骨組みの重要性とその理論であって、枝葉ではないということに目配りすべきだと感じます。



 次の本は日本経済新聞社編の『政権』。2009年の8月30日の政権交代が遠い過去のように感じる昨今の情勢ですが、本書は日経新聞で連載されていた「政権」を書籍化したもの。
政治家が何を見ていたのか、政局の動き、日々生じる現象といった点をざっと振り返り、個別事象を深堀するきっかけという意味でも良い本ですね。


http://www.amazon.co.jp /dp/4532354439

牧野邦昭『戦時下の経済学者』を読む。(その1)

 本書は、第一次大戦及び第二次大戦における「総力戦」に直面した日本の経済学者たちの行動や言説について扱っている。本書の着眼点として面白いのが、本書が通常の経済学史や経済思想史といった体裁を目指すのではなく、「経済学の社会史」を目指すという視点だろう。つまり、個々の経済学者の思想や行動が、現在の視点からみて当時の社会や経済学の動きの中でどのような役割を果たしており、最終的にはどのような形で総力戦体制に取り込まれていったのかという視点である。着眼点の面白さとともに、本書の試みは個人的には成功していると思う。
  本書ではこの視点が、第一次大戦下における河上肇の反応と思想について、陸軍及び海軍の経済調査とその利用、日中戦争以降の経済新体制を巡る論争、思想対策の手段としての経済学と近代経済学の成立・経済学の制度化、そして高橋亀吉と第二次大戦という5つの論点を通じて描かれる。まずは本書の第二章までの内容についてまとめてみよう。

1.第一次大戦下における河上肇の反応と思想について
本書でまず語られるのが、第一次大戦における河上肇の反応である。河上の見る所では、ドイツがイギリスにより海上封鎖を受けながら戦いを続行できたのは、一切の奢侈を廃止したためであった。これは河上の年来の持論でもある「奢侈品への需要が「資本の無駄遣い」に繋がる」という主張である。
資本蓄積が不十分な日本が、西欧列強諸国と伍していくには、奢侈品への需要を必需財への投資に回すことで貧乏を無くし、成長力を高めることが必要となる。このための方策として河上は、国民の精神の改造(利己主義から利他主義)といった人道主義的発想からの社会変革と、社会主義的な組織改造、つまり生産権を天皇に奉還し「事業的資本家」が「国家直属の官吏」となることで国民が心を一つにして「国家社会」のために働き、分に応じて給与を得て貧困線以上の生活水準を維持するというもの、の二つを指摘する。社会主義的な組織改造とは、戦時下の総力戦体制を平時の経済体制に適用することを意味し、そして「国家社会主義」の発露は、河上の持つナショナリストとしての側面を表したものでもあった。

2.陸軍及び海軍の経済調査とその利用
そして第一次大戦に衝撃を受けたのは、河上肇だけではない。日本の陸軍においても第一次大戦はこれまでの戦争とは大きく異なるものとして受け止められた。国家の全てを戦争に向けさせる総力戦では、膨大な軍需や民需を支えるための経済力(生産力)を拡充することが必要となる。来るべき総力戦に備えて陸軍では経済学を分かる人材を要請する必要が生じるが、秋丸次朗や池田純久といった人々は、陸軍秋丸機関での分析や『国防の本記と其強化の提唱』といった形で、影響を与えていくことになる。
本書によれば、陸軍秋丸機関の設立は昭和14年のノモンハン事件での敗戦が直接の契機であり、当初の意図は「石井細菌部隊」に匹敵する「経済謀略機関」を作ることであった。秋丸機関に協力した有沢広巳、中山伊知郎ら経済学者の出した結論は、「英米との戦争は短期ならギリギリ可能だが、長期戦は困難で、英米に依存する日本が英米と対立することは経済的破綻をもたらす」というものであった。だが、この結論は陸軍側にとっては既知であり、寧ろ限界を認識した上で米国経済の弱点を考察することが経済学者には求められていたのである。そして、秋丸機関の研究成果は戦争遂行上の戦術的な問題として利用され、参加した学者もそれに媚びて、英米の経済力も「突き崩せないことはあるまい」という視点を補強するものとして利用された。
海軍においても陸軍と同様の動きはあった。秋丸機関や海軍のブレーン・トラストの活動は、当時の代表的な経済学者達を総動員したものであり、経済学者の大半は何らかの形で戦争に関わっていた。先述したように、経済学者の出した結論は陸軍にとっては既知であり、戦争目的の前に都合よく利用された側面がある。ただし一方で有沢や中山の経験は、戦後の「傾斜生産方式」や産業政策的な発想という形で受け継がれていくことになるのである。

3.「経済新体制論」を巡って
三番目の論点が、経済新体制を巡る論争についてだ。当時様々な「経済新体制論」が登場したが、問題は、それらの理論的な背景が顧みられることなく、「革新」か「現状維持」かを巡る政治的・イデオロギー的争いにより、真に望ましい経済体制を巡る議論が不可能になったことである。
経済新体制論としてまず取り上げられるのが笠信太郎『日本経済の再編成』だが、これは昭和研究会が1939年に作成した「日本経済再編成試案」が基となっている。笠は、企業の目的を利潤本位から生産本位に変更させ、当時のインフレを緩和するために公定価格を維持して、利潤率の統制、資本と経営の分離、技術の全面的公開、需給の自主的統制が必要だと訴えた。
次に取り上げられるのが柴田敬の日本経済革新案である。日本経済革新案は柴田自身の独占資本主義に関する理論的研究に、作田荘一の国家論及び満州国の統制経済の体験が加わったもの、というのが本書の整理だろう。ケインズ『一般理論』における柴田の認識に基づけばマクロ経済政策の鍵は金融政策である。しかし河上肇『貧乏物語』の視点に影響を受けた柴田の問題意識-独占資本主義の進行による一般利潤率の低下という日本の現実-を踏まえれば、投資は増加しないため金融政策による利子率低下は景気対策として無効となる。期待利潤率の低下による通貨供給の無効性といった独占資本主義の弊害が、日本経済を動脈効果に陥らせ、生産活動の萎縮と失業の増大を伴いつつ、社会不安が拡大する。更に独占資本主義は植民地を求めて国際的緊張関係を高めていき、これらが因果の双方に作用して日本経済を停滞させるのである。以上のような柴田の認識からすれば、資本主義体制の変革の必要性を柴田が主張するのもやむを得ないことなのだろう。
以上のような笠や柴田の経済新体制の必要性に関する主張に反対の論陣を張ったのが、山本勝市である。山本は柴田と同様、河上肇の『貧乏物語』に大きく影響されるが、人為的に秩序を作り経済を管理しようとする社会主義については懐疑的であった。それは山本の「巨大な社会」についての議論にもうかがえる。つまり、「巨大な社会」とは現代社会が原始共産体のような「小さな社会」とは異なっているため、社会主義は実行不可能というものである。山本の議論は戦後ハイエクが展開した「グレートソサエティ」論を先取りしたものと言えるが、河上は山本の批判には直接答えることはなかった。
山本は河上の「奢侈品の廃止により生じた富者の余裕資金を利用することで、生産必需品を安価かつ大量に供給することが可能になる」といった議論には同意していた。しかし、社会変革に関する思想という意味では再び両者の考え方は異なってくる。河上は第一次大戦という総力戦を参考にしながら経済組織改造と人心改造の二頭立てで社会を変えることを考えたが、山本は先に見たように社会主義的な視点からの経済組織改造を否定した。一方で山本は河上と同じく人身改造により「皇国の隆昌という見地から価値判断がなされた需要」を行うことを主張する。つまり、山本の主張は『貧乏物語』の一バージョンなのである。
「経済新体制論」を巡る論者のその後はどうなったか。山本の経済新体制論批判は財界や鳩山一郎といった政党政治家、観念右翼に影響を与えていき、山本の論文は各方面に配布され経済新体制論批判に用いられるようになる。笠はこうした批判・攻撃から逃れるためにヨーロッパ特派員となり日本をはなれ、経済新体制確立要綱には利潤原理を認めることが明記された。
一方で新体制推進側からの反撃により、山本の著作『計画経済批判』は勧告絶版となる。その後山本は文部省国民精神文化研究所の退職を余儀なくされ、明朗会や陸軍参謀本部部員らとともに条件付講和に持ち込もうとする終戦工作を行うことになる。終戦後、山本は鳩山一郎に誘われて政治家の道を歩む。吉田・鳩山抗争の際に、山本は石橋湛山の政治的同志として行動し、ともに経済政策案の検討を行っている。この経済政策案は自由主義的なものであった。
最後に柴田についてみよう。柴田は公職追放後、教職に復帰したが、政治に関与することはなかった。戦後には、現代の環境問題の先駆けとなる着想を理論化することに力を注いでいる。
さて、ここまで読み進めてみて自分が感じた点を一言で述べるとすれば、河上肇の影響力の大きさがこれほどのものだったのかということだ。「総力戦」の重視と「資本蓄積が他の一等国と比較して不十分である」という認識がもたらした影響については、例えば対外進出の必要性への認識といった視点や、旧平価での金本位制維持の背景にあったと思われる国際金融資本体制の重視といった視点にも影響したのだろう。
いわゆる近代経済学者の役割はどうだったのか、経済学者の「思想」が当時の社会の中でどのように作用したのか、という本書の残りの論点については次回以降でまとめてみよう。

2010年11月18日木曜日

森信茂樹『日本の税制 何が問題か』、石橋湛山著作集3・4、ハジュン・チャン『世界経済を破綻させる23の嘘』

今日も本屋にていくつか本を買い込み。

一冊目は森信先生の『日本の税制 何が問題か』。少し前の本ですが、近所の本屋では全く入荷しておらず困っていた訳です。書評が出ましたので一冊入荷した分をゲット。内容は書名にもあるとおり、日本の税制について細かく解説しつつ、所得税、法人税、相続税、消費税、地方税という形で現状と課題を考察したものと思量。これは勉強になりそう。



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二冊目及び三冊目は石橋湛山著作集の3及び4。東洋経済の115周年記念出版ということで石橋湛山全集が、全15巻及び補巻の1冊を加えた全16巻という形で復刊が始まったわけですが、当然ながら全巻手に入れることは難しいので、既読の著作集1巻及び2巻の残りの部分を購入しようということで。著作集3は「大日本主義との闘争」、著作集4は「改造は心から」という題名が付されており、政治・外交、文芸・社会・人物論といった内容になっています。日付を見ましたら、全集の復刊に合わせて著作集も二刷となっている由、古本よりも新刊本が良いという方で著作集をお求めの方は買いではないでしょうか。これを機に著作集は全て読破したいところです。

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http://www.amazon.co.jp/dp/4492060847

そして最後の一冊。近所の本屋で復刊された高橋亀吉『大正昭和財界変動史』がないかなぁ・・と思いつつあれこれとブラブラしたのですが、その際に偶々手に取ったのがハジュン・チャン(Ha-Joon Chang)『世界経済を破綻させる23の嘘』。タイトルが刺激的な風味なので思わず手にとってしまったのですが、中身も大層刺激的。異論もいくつもありますし、少々劇薬の面持ちなので、胃腸への負担を和らげるために読了後何か書きたいなぁ・・と感じた次第。スティグリッツは賛意を、イースタリーは批判を、といえば大体の内容はお察しがつく方も居るのではないかと思います。


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そういえば、This time is differentとか、Fault Linesの邦訳版はまだでないのかなぁ。記憶も薄れてきたしそろそろ再読したいと思うこの頃。

リチャード・J・スメサースト『高橋是清 日本のケインズ-その生涯と思想』を読む(その3)

 (その3)では、(その1)及び(その2)で宿題となっていた二つの疑問、つまり高橋の財政政策と軍国主義との関係について、及び、なぜ高橋は時局匡救事業を1934年に終了させてしまったのかという点についての著者の議論を敷衍しつつ、感想を述べたい。

4.高橋の政策が軍国主義の台頭に与えた役割
1)既存の4つの解釈から
 高橋が行った政策と軍国主義の台頭との関係について、著者はまずこれまでの研究における4つの解釈をレビューしたうえで論を進めていく。
一つ目の解釈は、マルクス主義の立場に基づく解釈である。具体的には、高橋が独占的資本主義を代表する人物であるから、大蔵大臣として日本を資本主義の発展の最終段階である「国家独占主義」とファシズム、戦争に導いたというものだ。二つ目の解釈は高橋が属していた政友会が、経済的自立と中国に対する高圧的介入、軍事的拡張と積極財政を提唱していたという事実を強調するものである。そして三つ目の解釈は、日本の政治的な現実の下では、大規模な財政金融政策を行うにあたり軍事費を大幅増加させる以外に選択肢は無かったというものである。結局、高橋の財政政策は軍部に対する制約を解き放ち、潜在的に戦争への道を準備したという解釈だ。最後に四つ目の解釈は、高橋は軍国主義の台頭に対する責任はないというものだ。高橋は、外交軍事面における中国での対応や過度の軍事支出に反対しており、軍隊を政治的統制の下に置くために闘ったというのである。
 著者は、これら4つの解釈のうち、高橋が「独占的金融資本」を代表していたために日本をファシズムや戦争に導いたという解釈は、「独占的金融資本」を代表するのが高橋のみに留まらず、高橋の政策と井上や浜口といった正統的な古典派による財政金融政策とを区別できないため問題があるとする。そして二つ目の解釈も論拠となる資料を表層的にしか見ていないとして却下する。三つ目の解釈については、高橋は軍事費を増やす場合においても常に軍部が要求する金額よりも少ない額を提示し、常に陸海軍大臣やその部下と戦い続けていたことが見逃されているという。
著者が真実に近いとする仮説は第4の仮説だが、いくつかの修正が必要であるとする。つまり、高橋は積極的な意味でも消極的な意味でも軍国主義や陸軍のアジア侵略を支持したことは無かった。だが、満州の征服は高橋が編成した予算によりはじめて可能となり、その意味では軍国主義と全面的な戦争の一歩を記したものだというわけである。

2)軍国主義への反対姿勢の軌跡
 著者は、軍国主義や陸海軍の対外侵略、過剰な軍事支出に対する高橋の反対姿勢の淵源を、日本の経済発展における前田正名の議論を支持した1885年当時から遡って論じていく。 
前田の行動、そして前田の議論が明治の元勲達の手によって否定される様を目の当たりにしながら、高橋は、国を富ませることは強い軍隊を作るよりも重要なことであり、国を富ませるための第一義的な目的は、全ての日本国民の生活水準を引き上げることだと考えた。そして、経済発展の主役となるのは、中央政府の官僚ではなく、地元市場や生産技術に関する詳細な知識を持つ地域の企業家たちであると考えた。そして、強力すぎる軍隊は経済発展を阻害するのみならず、日本の安全保障にとって危険でさえある。中国に対して攻撃的かつ独自の外交政策は危険であり、それが米英と中国との結びつきを誘発させるのであればなおさらである。外交に関しては外交官が主導権を握り、軍人はこれに従うべきである。このように考えたのである。
 高橋は、要職を歴任しながら、攻撃的外交政策、過剰な軍事支出、外国からの借り入れが日本の信用状態を脅かす場合には、一貫して反対した。英米との協調という考えに至ったのは、日露戦争において日本より豊かで強大な西欧諸国の協力が無ければ、経済的、外交的、軍事的にさえも日本の発展は無いということを外債交渉や欧米の金融家との交流を通じて知ったためであった。高橋は英米との戦争は軍事的にも財政的にも自殺行為であると信じていたが、西洋諸国に対する日本蔑視を他の日本人以上に不快に感じており、英米の価値観を卑屈に擁護したわけではなかった。むしろ英米の資本と産業の力を理解した堅実な現実主義者であった。
 著者はこのように高橋が元々軍国主義に反対であったと論じる。そして30年代に蔵相になった高橋もそうであったと論じる。これはその通りだろう。本書では、齋藤内閣や岡田内閣といった政党政治家を首班としない内閣の中にあって大蔵大臣として闘った高橋の姿が具体的に語られていく。
確かに財政支出の拡大を行ったのは事実だが、高橋はこれをあくまで一時的なものと捉えていた。そして、高橋が予算編成に関わった1933年度から36年度までの4年間において国民所得の比率は6.5%程度で安定していたことも重要だ。つまり軍事費が増加したのは事実であり、そのきっかけを作るという意味で高橋の経済政策は一定の役割を果たしたのかもしれない。だがこれは、人々の所得に見合った予算を編成する必要があり、国防に(重点配分をするといった形で)焦点を当てすぎると、手に負えないインフレを惹起し、信頼を失うことになる、そうすると国防も保てなくなる、という高橋の基本的な考え方と整合的であったことに留意しなければならない。因みに、軍事支出の国民所得に占める比率が急上昇したのは高橋の死後である。37年に15%、41年に27%、44年には76%となる。つまり高橋が蔵相在任中には軍事費への重点配分などなかったのである。
高橋は1936年2月26日(2.26事件)に青年将校の手にかかり命を落とすことになる。津島寿一は回顧録の中で「一般告別式には、各階層の方々の参拝が踵をつぎ、群をなして押し寄せたという有様であった。その中には幼児を背に、子供の手を引く裏店のおかみさん風の人々が多数を占めておったのを見て、私は高橋さんに対する一般大衆の敬愛の念のいかに広くかつ深いものがあるかを、強く印象づけられていたのであった。と同時に、それは軍の一部に対する一種のデモンストレーションとも見取られたのであった」と書いている。『ニューヨーク・タイムズ』は高橋の死を悼む死亡記事を掲載した。高橋の死によって、戦前の軍国主義に対する「最後の抵抗」が取り除かれることになる。

5.高橋と時局匡救事業
 最後に高橋と時局匡救事業との関係についての著者の議論を敷衍しよう。後世の学者たちは、恐慌期に高橋が時局匡救事業より多額の軍事費を支出しながら、時局匡救事業を1932年度から1934年度までのわずか3年間しか実施しなかったことを批判してきた。
 著者の議論によれば、高橋は時局匡救事業を継続しようと試みたが、同僚の大臣であった三土忠造によって阻止されたという事情がある。ただし、高橋自身は、中央の指示により匡救事業を進めることの価値については強い疑念を抱いていた。日本の景気低迷が最悪期を脱しつつある中では、現場主導の分権的な意思決定と草の根の市場情報に注意深く気を配ることを通じて、地域経済の発展を重視する姿勢に回帰していたと著者は言う。以上の点は現代の公共事業のバラマキ論をめぐる政策議論を先取りしているようで興味深い。

6.感想
 本書は高橋是清の生涯と思想を通じて、高橋が成し遂げたことの評価とその背景に何があったのかを体系的に論じた書籍である。高橋の人生は苦難の連続であり、それは生涯を通じてのものであった。だが、高橋は生来の楽観的な気質と幼い時から親しんだ英語の能力、そして封建的な教育を施されていなかったことが逆に利点となって、欧州、特に英米の知見を書物のみならず人々との関わりを通じて習得せしめるという、他の同時代人とは異なった次元を獲得するに至らせた。その点が日露戦争の外債調達の成功や、挫折を経た後の横浜正金銀行や日本銀行、ひいては大蔵大臣、政友会に所属する政治家といった形での栄達の道をもたらしたのであろう。
 そして英米との交わりは、高橋にニヒリスティックではない、リアリスティックな形での日本の立ち位置を認識させ、そのことが自国の経済発展、特に国民の所得の向上を旨とする政策観と、対外関係としては英米協調、中国と融和するといった国際観を持たせることになった。しかし世界的な大恐慌、国内では昭和恐慌という未曾有の事態の後に蔵相となった高橋の眼前には、経済の急激な悪化とともに、一方で高橋を含む政党政治家に対する諦念や恐慌の痛手の中から国民に支持された軍部という組織が立ちはだかることになる。度重なるテロルと粛清の中で孤立無援というハンディを背負い、高橋が拡張的な経済政策を行うことになった。確かに経済政策自体は成功を収めたといえるだろう。しかし、高橋が凶弾に倒れると社会のうねりは急転していき、我が国はどん底への道を突き進んでいくのである。
 こういった歴史の道程を一望する時、自分がまず感じるのは現代との奇妙な一致、もしくは既視感といった感覚である。大戦景気といったバブルが崩壊した後の1920年代における金融危機を伴う長期停滞は、90年代における長期停滞と重なる。この停滞は後半期にマイルドなデフレを伴いつつ進行したという意味でも共通だろう。そして、デフレを伴う長期停滞は、社会の弱者層に影響を与えつつ、格差を内包する形で深刻化していく。現代と昭和期には多少のラグはあるものの、こうした10年の停滞の後に世界経済が変容していき、再度我が国は不況に陥ることになる。
勿論、以上はアナロジーであって同じ事実が繰り返されるのではない。歴史上の事実と現在とは異なるという戒めは押さえておくべきだ。しかしそうであったとしても共通点を感じずにはいられない。昭和恐慌から我が国はいち早く立ち直ることができたのに対し、現代の我が国の回復は緩慢で、マイルドなデフレと総需要の停滞を克服できずにいる。しかし、やはり底流といった点、政治への国民の抜きがたい不信といった感覚は共通のものではないか。厄介なことに現代では「一時の便法」であっても兎に角経済を回復させるという認識を共有し、実行するという気概と行動力に政府は欠け、知識人の多くは寧ろ停滞を好み、政府の失敗を糊塗することに躍起になっているようにもうつる。
現代においては軍部といった具体的な形で政治の空白の間隙を縫って登場する主体は存在していないと思われるが、我が国が戦後の経済成長の結果として積み上げてきた様々な遺産が今後磨耗していくことを考えると何が生じるのかは不透明である。我々の眼前に生起しているのは、総需要の停滞とデフレ、長期に渡る総需要の低迷の結果としての成長力の停滞という状況であり、これが様々な局面の矛盾や問題の表出といった形で緩やかかつ確実に社会構造に浸透しているという状況ではなかろうか。
高橋の経済政策においても明らかな通り、拡張的な財政・金融政策が20年にわたる長期停滞で生み出されたものをたちどころに全て克服することは困難だろう。しかしだからといって、高橋の経済政策という「成功例」を無碍に溝に捨てる程、我々は賢くなったのか。
10年前の経済論争と現代の論争は繰り返しという見方がある。更に言えば、デフレをめぐる経済論争は昭和恐慌における経済論争と大差はない。10年の時のみならず近代すら超克できていないのではないか。
後世の一凡人たる我々は、ともすれば過去の成功例の欠点をあげつらい、現代と過去とは異なるという極めて分かりやすい了解を慰めとして共有してはいないか。私は後世の一凡人が過去の偉人に勝てる唯一の強みがあると思う。それは歴史のその後を知っているという強みだ。成功が失敗への端緒となったのであれば、むしろそのことを糧として、先に進むことが可能なのも後世の一凡人の利点であり、責務でもある。いささか話が脱線気味であるが、このようなことを感じた次第だ。

2010年11月17日水曜日

リチャード・J・スメサースト『高橋是清 日本のケインズ-その生涯と思想』を読む(その2)

(その1)では、高橋是清という人格の形成過程を明らかにすること、公職についた高橋がどのような形で独特の思想を育むに至ったのか、大恐慌時の財政金融政策をどう評価するか、そして高橋の政策が軍国主義の台頭に与えた役割、という著者が明示する4つの大きな論点のうちの前半2つの点について簡単にまとめてみた。その2では残りの2つの点のうち、大恐慌時の財政金融政策について感想を交えつつ敷衍してみよう。

3.大恐慌時の財政金融政策の評価
1)国際環境から見た昭和恐慌の特徴
 まず著者の議論に耳を傾ける前に、昭和恐慌の特徴を国際的な相違に留意しながら見ていこう(伊藤正直(2010)『なぜ金融危機はくり返すのか』旬報社、中村隆英(1993)『日本経済-その成長と構造<第3版>』東京大学出版会、長幸男(2001)『昭和恐慌-日本ファシズム前夜』岩波書店、等を参照)。

①長期停滞の後で生じた恐慌
一つ目の特徴は、昭和恐慌が1920年代の長期停滞の駄目押しのような形で生じたということである。この点は1921年から29年まで、相違はあるものの景気拡大が続いていた欧米とは対象的であり、世界的なバブルの形成と崩壊、そして世界金融危機の中で「失われた20年」に陥った我が国という、現代との比較においても奇妙な一致ともいえる(図表1)。

図表1 奇妙な一致

出所:若田部昌澄(2010)「危機の経済政策-湛山ならどう立ち向かうか」経済倶楽部講演録2010.11所収、図表3を参照しつつ作成。

少し1920年代当時の動向を跡付けてみよう。第一次大戦期の好景気(大戦景気)における1910年代の我が国は高成長(実質成長率7.3%、名目成長率27.3%)に沸き、対外債務国から対外債権国へと変貌を遂げたのだが、19203月の株価暴落を契機として長期停滞に陥る。そして1925年以降はデフレに突入した。デフレの持続は多くの財閥・企業を経営困難に陥らせて産業の寡占化を進め、第二次産業における熟練労働者と未熟練・若年就労者との間の賃金格差を生み出した。人員削減の中で農村から都市に流入した人々が向かったのは第三次産業、特に中小商工業であり、低賃金を前提に労働集約的なサービスを提供した。このサービスを利用したのが大企業である。以上のように、熟練労働者と未熟練・若年就労者、中小商工業と大企業といった「二重構造」を内包しつつ、デフレが続いたのである。「慢性不況」と呼ばれた1920年代には、金融危機も生じた。1927年には、十五銀行や藤田銀行、加島銀行、近江銀行が破綻し、植民地の中央銀行である台湾銀行と朝鮮銀行が事実上の破綻となった。政府・日銀は巨額の救済融資を実行したが、救済融資の返済には25年を要することになった。この結果として、1930年から31年にかけての昭和恐慌では、米国で生じたような大規模な銀行破綻と信用恐慌は生じなかった。

②震源地よりも大であった物価の下落や貿易の縮小
 二つ目の特徴は、恐慌時の物価の下落率や貿易の縮小率が、危機の震源地であった欧米よりも大きかったという点である。財別に見ていくと、19296月から30年末にかけて生糸の価格は52%下落した。綿糸、金巾、米、大豆といった貿易財の価格も4割から5割下落した。株価は28年から先行的に下落しており、造船、鉱業及び石油、電力、化学といった重化学分野で大きかった。

③金本位制離脱と大恐慌のタイミング
 三つ目の特徴は、日本が金本位制に戻ったのは世界恐慌が生じた後であったという点である。金本位制復帰の理由としては、日露戦争の際に英国から借りた四分利付英貨公債の借り換えを行うための条件であったこと、31年にできたBISの理事国となるための条件であったことが挙げられる。世界競争から脱落者になるのを防ぎ、国際標準に適合する道として、金本位制の復帰が位置づけられ、これができなければ日本は世界の三等国になるというのが当時の政府の判断であった。しかし、金本位制への復帰は、ウォール街の株価暴落が生じた後となった。そして、恐慌下で膨大な量の正貨(金)が流出する。正貨流出額は30年~31年にかけて7億8700万円、我が国の正貨保有高は金輸出解禁時点の134400万円から3112月末には5億5700万円へと激減したのである。

④急速な恐慌からの回復
 四つ目の特徴は、恐慌からの回復が極めて急速であったということである。日本は3112月に金本位制を停止し、32年に高橋財政がスタートしてから、工業製品を中心にして恐慌からの回復が極めて短期間で生じた。米国や欧州は、38年~40年の時点でようやく29年の水準を回復したのに対して、日本は34年には既に29年の水準を回復した。具体的には、1920年代の「失われた10年」においてマイルドなデフレ、昭和恐慌時には10%というデフレを経験した日本経済であったが、高橋財政により2%程度のマイルドなインフレーションと7%程度の実質成長を可能とするまで回復したのである。
だが、この回復は農業とその他産業ではズレがあったことも指摘せねばならないだろう。例えば米の生産や価格が回復していくのは1935年のことであり、生糸が29年の水準を回復したのはずっと後のことであった。先程停滞には「二重構造」を内包したと書いたが、停滞からの回復も又ばらつきが生じていたのである。

2)日本のケインズ
①高橋の経済政策における4つの疑問
 長々と昭和恐慌前後の特徴を概説した理由は、以上の話をあらかじめ頭に入れておくことで、著者の議論を読んだ方がより面白いのではないかと感じたためである。
さて本書で高橋の経済政策についての記述がなされる箇所は、「日本のケインズ」と銘打たれた第12章である。高橋が大蔵大臣に就任したとき、物価は急落、失業は増加、農家は農産物価格暴落により打撃をうけ、鉱工業生産は停滞して工場は休業ないし稼働率が低下した状態にあり、新規設備投資はほとんど行われていなかった。こうした問題に対処すべく、半年あまりで高橋は前任者の緊縮政策を劇的に転換させ、非伝統的な財政金融政策の導入により景気刺激をはかり、日本経済を回復へと導いたのである。
 金融政策では、日本を金本位制から離脱させて紙幣の金との交換可能性を絶ち、ドルとポンドに対して円を切り下げ、公定歩合を引き下げて金利の低下を促し、日本銀行券の発行限度額を引き上げる法律を導入した。通貨切り下げによって、貿易縮小が生じた世界とは異なり日本の輸出は好調を維持した。
 さらに高橋は、需要刺激のために財政支出を拡大させることで景気変動を平準化させるという財政政策を行った。高橋は歳入と歳出の差額を増税で埋めるのではなく、低利の国債を日銀に直接売却するという「引き受け」により埋め合わせた。これにより、政府支出はマネーの増加を通じて有効需要を拡大させ、輸出の増加と相まって生産と雇用を刺激した。
 時系列で高橋の行った経済政策をみていくと、金輸出再禁止(金本位制からの再離脱)が19311213日、日銀による赤字国債の引受けが行われたのが193211月~1935年末、拡張的財政政策の実行は1932年夏に成立した1932年度補正予算から1936年度予算までの期間である。財政政策と金融政策の両輪を働かせたのが高橋の経済政策の特徴だが、金輸出再禁止の実行から拡張的財政・金融政策の実行の間にはラグがある。後でみるように、このラグの時期に行われた政策、およびその背後で政策当局がどう関わったのかという点が興味深く感じるところだ。
 さて、著者は、第12章の議論を進めるにあたって、いくつかの疑問を提示している。ひとつは、金本位制離脱による円切り下げは「近隣窮乏化」政策に結びつくのではないかという点だ。そして二点目は、国債引き受けを伴う政府支出の拡大が、大蔵官僚や中央銀行員に市場の制約を無視して通貨供給量を拡大させる権限を与えたという意味で危険ではなかったかという疑問である。三点目は、高橋が行った時局匡救事業と軍事費を中心とする財政支出は、軍国主義の台頭や我が国が引き起こした戦争に向けて決定的な役割を果たしたのではないかという疑問である。最後の疑問は、なぜ高橋は時局匡救事業を1934年に終了させてしまったのかという点である。
これらに答える形で議論は進んでいくが、(1)でふれた昭和恐慌突入の過程と、井上・高橋の論争といった点の記述も臨場感あふれる筆致で興味深い。本書の記述を読んで自分が興味深く感じた点も合わせてふれながら見ていこう。

②深井英五の役割
 自分が興味深く感じた点の第一は、高橋が大蔵大臣に就任し、金輸出再禁止が実行された時期(193112月)の前後における深井英五の役割である。
深井は当時日銀副総裁であり、高橋が日露戦争の戦費調達のためロンドンに滞在した時(1904年~1905年)からの側近である。深井は、井上の後に大蔵大臣の指名を受けることが確実視されていた高橋のもとを訪れて、金本位制離脱と金輸出を速やかに禁止すること、早急に日本国内で通貨を金に兌換することを禁止する勅令を公布する準備を進めるべきことを進言した。高橋は金本位制離脱と金輸出禁止には賛成するものの、金兌換停止には懸念を表明する。それは、高橋でさえも現下の危機からの脱却が可能となった暁には金本位制に復帰するものだと考えており、円の価値を安定化させるアンカーを持たずに円相場を変動させることへの危惧があったためである。通貨の番人たる深井が通貨のアンカーとしての金からの離脱を支持し、逆に放漫財政との批判もあった高橋がこれに懸念を表明するという図式はいささか奇妙なものだ。
ただし深井と高橋は、日本が管理通貨制を採用するのであれば、深井が提示した「生産性と通貨供給量を調和させるような金融政策を遂行することが必要」という点では合意していた。高橋の後を継いだ大蔵大臣らは、この金言を無視するようになり、そして1937年の初めに深井は日銀総裁の職を辞することになったわけだが、この点は著者の言うとおり日本にとって不幸な事態といえるだろう。

③円切り下げに関する当時の論争
 高橋と深井が考えた政策は、輸出促進のために円を切り下げ、金本位制の制約を外すことで通貨供給が行えるようにして流動性を供給するというものであった。
著者は金本位制離脱と円切り下げ政策に対する当時のマスコミの反応として、『東京日日新聞』や『エコノミスト』、『東洋経済新報』の論調を取り上げる。
『東京日日新聞』や『エコノミスト』の論調は、金本位制からの離脱は不可避であり、卸売物価や消費者物価の回復が予想されるものの、インフレを防止するためにこの拡張政策を注意深く監視すべきだというものであった。そしてジャーナリストの中では、『東洋経済新報』の石橋湛山とその仲間達がデフレの有害な影響を認識していた。『エコノミスト』では、経済学者は金本位制からの離脱には一致して反対していたが、同誌は「経済学者は通常の学問的立場から」高橋を批判しており、彼の政策が経済に対して有害であるという理由からではなく、彼の政策が正統的な経済理論に反するという理由から反対している、と述べている。ケインズの『貨幣改革論』を現実の政策に活かそうとしたのは石橋らのグループのみであった。この一節を読んで、現代における「正統派」の議論にも同様の側面が垣間見えると自分は思う。
そして作者の論争の紹介は、32121日の高橋・井上による「OK牧場の決闘」の記述で最高潮を迎える。「OK牧場の決闘」が行われたのは、高橋が所属する政友会が民生党を抑えて総選挙にて勝利する1ヶ月前のことである。
 高橋と井上の議論は、現代における通貨切り下げ競争と金融緩和策の評価に関する議論を考えると意味深い内容である。彼等の主張を紹介しよう。
高橋はまず日本における恐慌の原因は、浜口・井上の「超緊縮予算」であり、世界的に採用されたデフレ的な政策により引き起こされた大恐慌は日本にも影響を与えたが、日本の経済的苦境は主に民生党の政策によるところが大だと表明する。前政権の政策は、金融を閉塞状況に陥らせ、産業は衰退し、日本経済を不況のどん底に落としめた。金輸出再禁止は、このような状況を打開する第一歩であるというのが高橋の主張である。
 一方で井上は反論する。高橋は誤っている。まず、日本における恐慌は世界の他の地域に比べて軽微なものに留まっているというのが世界の財界人の一致した見解であると論じる。そして為替相場の切り下げにより輸出を拡大させるという高橋の構想を批判する。井上は円の切り下げが日本経済の回復をもたらすことはないと述べる。この理由として、円を切り下げても米国向けの生糸輸出が利益を受けることはなく、他国は日本からの輸入を抑制するために、通貨切り下げや関税引上げといった報復措置を取ることが予想される。そしてマネーの増加はインフレにつながり、国民生活に打撃を与える。そして高橋の構想が日本のためになるとしても、これは他国の犠牲において日本の国益を推し進めるものであって、国際倫理に反するというものだ。
 高橋と井上の議論は、鋭く対立する二つの政策的立場を表明したものであった。井上が提唱した政策は、国際金融市場の秩序に則るというものだ。国際的な枠組みが崩壊しつつあるのならば、日本を優先することが高橋の考えであった。そして、この二つの立場は日本の立ち居地についての齟齬からも生じる。つまり、井上の議論は日本が実際よりも金融大国であるという自負から生じたのかもしれず、それは国際金融市場の大御所と井上のつながりによるものなのかもしれない。一方で高橋は経済的にも金融的にも、日本は小さな存在であることを自覚していた。この点、日露戦争時の外債発行における経験、つまり英米と比べ日本の力が弱小であったことを自覚していた点も影響していたのかもしれない。
ややわき道にそれるが、日本は小さな存在であるという高橋の認識は石橋湛山の「小日本主義」にも通暁するのではないか。対極としての「大日本主義」は軍備拡張と植民地拡大へと繋がるが、その中で台頭したのは軍部であったのは言うまでもない。一方で小日本主義は、軍備拡張と植民地拡大を否定し、自由主義と自国の経済的安定のための資源の重点配分を旨とした。この点、高橋と石橋の思想、更にはケインズをはじめとする世界の一級の経済学者の思想との共通点があったといえるのではないだろうか。だからこそ高橋はケインズに先駆けて拡張的財政・金融政策を実行に移せたのであろうし、石橋は経済学のエッセンスを体得することができ、現実に即した柔軟な思考を持ちえたのではないか、そんな風に感じた次第だ。

④金融面での準備的政策の実行
 先程書いたとおりだが、自分は昭和恐慌下における一連の経済政策の中で、国債引き受け・財政拡張に至る前段階としての金融緩和策が(財政・金融政策の大々的な実行とあわせ)重要ではなかったかと考えている。
ある政策が望ましいと分かっていても即座に実行に移すためには「政策のインフラ」と呼ぶべきものが整備されていることが必要だ。卑近な例かもしれないが、最近の事例で考えれば、定額給付金や子供手当てといった家計への直接支給を行う際に、あらかじめ納税者番号制度といった政策インフラが整備されていれば実行はより容易となったはずだ。また給付付き税額控除といった政策も容易に行うことが可能になる。国債引き受けを伴う金融緩和と財政政策の実行を強力に進める前段階においても、それを可能にする準備的政策が着々と実行され、それが本来の政策の効力を増すことに影響したのではないかということだ。
 著者は、金融面で二つの施策を用意していたと述べる。一つはマネーサプライを大々的に増加させることを可能にするような制度的枠組みである。具体的には、1932年6月の兌換銀行券条例中改正法律、日本銀行納付金法、日本銀行参与会法の制定である。重要なのは兌換銀行券条例の改正だが、これにより日銀の保証準備発行限度1億2000万円が10億円まで増額された。そして制限外発行の要件も緩和された。
 もう一つは、低金利政策の実施である。公定歩合は高橋就任時には5.84%だったが、33年には3.65%に引き下げられ、蔵相在任中にはこの水準が維持された。低金利政策の実行は、低利での国債発行を容易にするという側面と、企業が事業拡大を行う際の資金調達を容易にするという側面もあった。
 本書では登場しないが、国債引き受けを容易にするという視点で言えば、伊藤(2009)でも指摘があるように、当時高橋は国債優遇措置のための政策を行ったということも指摘しておくべきだろう。つまり1932年4月の国債担保貸出に対する高率適用の緩和であり、32年7月の「国債ノ価額計算ニ関スル法律」の公布である。前者は融通期間30日以内の国債担保貸出について従来適用されていた金利を適用しないと決めたことであり、後者は商法の規定に関わらず国債については取得当時の時価を越えない範囲で大蔵大臣の交付する標準発行価格を帳簿価格とすることを認めたというものである。この制度により、国債の市場価格が下がっても評価損を計上する必要がなくなったというわけだ。国債価格が政府により管理されるため、金融機関の国債保有は安全有利な形となったのである。
 さて、大規模な財政・金融政策を行う前段階としての制度改正は、当時の日銀が「日銀による国債引き受け」に(後世の整理とは異なり)前向きであったのではないかとの考えをよぎらせる。確かに深井英五は、日銀による国債引き受けを後に「最大の失敗」であったと反省したのは有名な話であり、『日本銀行百年史』でも「本行引受による国債発行の危険性については、本行もある程度意識していたことは明らかであるが、結局高橋蔵相の強力な要請に押し切られ、『一時の便法』としてこれを容認したものと思われる」と述べて高橋のリーダーシップに原因を求めている。だが、1932年6月の兌換銀行券条例中改正法律、日本銀行納付金法、日本銀行参与会法の制定や、先に見た深井の高橋に対する金輸出再禁止の進言、そして深井が「生産力と通貨との均衡を主たる目標として通貨の運営を按配すべし」とし、金融や財界の閉塞を打開するには金本位制からの離脱が必要であると考えていたことを勘案すれば、マネタリーベースの円滑な拡張のために対民間信用のみならず対政府信用を活用するという可能性を現実的な路線として判断したとする伊藤(2009)の議論の方が説得的と感じられるのである。

⑤高橋が直面した政治・経済状況
 そして高橋の経済政策を考えるにあたり考慮すべき点は、昭和恐慌後の政治・経済状況についてである。著者が述べるように、昭和恐慌は政治及び経済の両面で日本に大きな傷を残した。悪循環に陥った経済の中で、世界各国は保護主義的な経済的自立を選択していく。米国は悪名高いスムート・ホーレイ関税法を成立させて関税を史上最高の水準まで引き上げた。英国は連邦諸国に対して特恵的な扱いを認めた。その他の諸国も英米に対抗して報復的に関税を引き上げるようになる。崩壊しつつある世界経済の枠組みを目のあたりにした高橋が、日本のみがその枠組みに忠実であることに何の利点も無いと考えるのは自然なことだろう。このような局面の中で政党に基盤を置く井上や、協調外交の立役者であった幣原、犬養、そして高橋自身も、政治的集団の中で徐々に信頼を失っていく。彼らに反対する勢力は、外交的・軍事的な自主性と、政党政治の廃止を提唱することになる。
 彼らに反対する勢力、つまり「自立日本の追求」を掲げる人々の中で最も強力な一派は軍部であった。陸軍は1931年9月に中国東北部に進出し、大衆はこれを喝采で迎えた。1920年代に民主主義をはぐくんだ大衆社会は、30年代には国家主義の潜行、米国の排外主義に対する敵意、中国の民族主義的抵抗に対する怒り、恐慌下における日本人の苦痛、矛盾、といった内外環境に関する様々な要素が混在しつつ、兵隊さん、分かりやすい答えを出してくれる人、弱腰な民主的妥協ではなく直接的行動と専制政治を提唱する人、つまり軍部への熱狂的な支持を集める土壌が生じた。そして政友会の主要人物の中でさえも、森格のように自らのよってたつ政党政治を反対することに加担する人物も出てくるようになった。
 1931年から36年にかけて、軍部の様々な勢力が、海外侵略、国内クーデター、暗殺といた暴挙に出て、日本の政治と外交政策を変質させてしまう。これは協調を提唱した人々を殺すか沈黙させることに繋がった。193112月に高橋は5度目の大蔵大臣に就任し、1932年5月15日の犬養首相暗殺後の5月26日に6度目の大蔵大臣に就任することになる。 高橋が経済政策を行っていたのは、以上のような政党政治に対する軍部の圧力、その背景にあった閉塞感といった状況下であった。そして犬養内閣の後継内閣は政党内閣ではなく退役海軍大将の斎藤実を首班とする内閣であった。斎藤内閣の成立に際しては、与党政友会と軍部との関係や政友会の強硬な外交政策の危惧もあったため、政党内閣ではなかったことも重要な特徴だ。(その3)でふれることになる軍部の圧力に対する高橋の抵抗は、命の危険と隣あわせの中で繰り広げられたことも留意すべきだろう。

⑥財政・金融政策の実行
 6度目の大蔵大臣に就任した高橋は、1932年6月3日と8月25日の二回にわたって議会にて財政に関する重要な演説を行った。高橋が表明したのは、公共事業の拡大や軍事的費用の支出を含む政府支出の大幅拡大、不況により減少した税収と拡大する財政支出の差を埋めるために国債を発行すること、大蔵省はこの国債を日銀に引き受けさせ、日銀は適切な頃合いを見計らって引き受けた国債を市中で売却すること、既にみた銀行券の保証発行限度額の大幅拡大、金利の引下げの促進、地方銀行への融資拡大を通じた地方金融の増強といった政策であった。
 そして高橋は1936年にかけてこれらの政策を実行していく。筆者の整理に従いながらみていくと、1931年度の中央政府の歳出は15億円であったが、32年度の歳出は20億円と3分の1増加した。税収は低迷していたため、歳出と歳入の差額は国債発行で穴埋めされるが、国債発行額は31年度の3000万円から32年度に7億円と大幅に拡大する。1935年度までの歳出は20億円~23億円の水準で推移し、国債発行額は6億円から9億円のレンジで推移した。日本銀行はこれらの国債を引き受けたが、35年末までに引き受けた国債の9割を市中で売却したことも注意すべきだろう。つまり、日銀は国債を引き受けることで増加した流動性を一定の期間を経てほぼ吸収していたのである。深井が言う「一石三鳥」の妙手というわけだ。そしてこの間の消費者物価の上昇率は年率3%未満と低位に抑えられた。
 高橋が行った政策は、軍部、文民官僚、恐慌対策(時局匡救事業)向けの支出を増加させた。軍部の予算は1931年度から1933年度にかけて2倍以上に拡大し、35年度までに10億円を超え、政府予算の半分弱を占めるようになった。軍部以外の省庁による支出は1931年度から33年度にかけて16%増加し、34年度、35年度とわずかに減少した。中央政府は1932年度から34年度にかけて5億4400万円を時局匡救事業として支出したが、その後全ての企業が廃止された。1932年度から34年度にかけての政府(中央及び地方)の投資は17億円に相当し、恐慌対策としてかなりの効果を上げたが、それでも軍部が受け取った金額の3分の2には届かなかった。
 マクロ経済学的な見地からすれば、高橋の政策の効果はめざましい。1931年から36年にかけて国民所得は6割の増加、消費者物価の上昇は18%であった。つまり、名目で見ても実質で見ても国民所得は急激な伸びをみせたのである。井上財政期の状況(名目所得2割減少、実質所得も停滞)と比較すればそれは明らかだろう。そして就業者数が増加し、36年には完全雇用の状態に日本は復帰する。個人所得も回復していき、タイムラグを経て経済の最低層であった農業労働者の実質賃金も35年から39年の間に増加に転じた。日本は米国よりも5年も前に世界恐慌から脱却し、ドイツを除くどの先進国よりも劇的な復活を果たしたのである。

⑦高橋は「近隣窮乏化」政策を進めたのか?
 さて、著者は最後に当初指摘した4つの質問のうち、前半二つの質問に答えている。高橋は「近隣窮乏化」政策を進めたのか?著者の答えはイエスだ。
しかし、著者が注意深く指摘するように、米英をはじめとする先進国経済が自国を第一に考え、国際協調と呼ばれるものが各国の財政指導者にデフレ的な政策を要求する状況で、「日本の」経済を恐慌から脱却させるためには他に選択肢は無かったとも言えよう。この状況は自分にとってはまさに現在と通じると感じる。現代においても世界的な金融緩和競争の様相を呈する中で、国際協調といった文脈では財政支出の切り詰めといったデフレ的な政策が志向される状況がある。昨今急激な形で進んだ円高もこの二つの「差」を政策当局が見抜くことができず、適切な政策が打てていないことに原因があるのではないか。そしてまさに大恐慌からの脱出は、各国が金本位制のくびきから逃れ、自ら金融緩和を積極的に行うという形を通じてなされたという点も考慮すべきだろう。

⑧高橋の政策がその後の放漫財政の道を開いたのか?
 著者は二番目の問い、つまり高橋が1932年に財政支出の拡大を行ったことで、放漫財政に日本は陥ったのか?という点についてはどう答えているか。この点についての著者の答えは同意するところだが、つまりインフレはいつどんな状況でも許容できず、国民所得の停滞とともにデフレが進行しているような状態においても許容できないのならば、高橋の政策は放漫財政であったというものだ。しかし、財政安定は国民所得の安定的増加よりも上位の目的なのだろうか。そうではないだろう。
 高橋の政策が放漫財政に繋がったという意見に賛意を持つ人々はこういうかもしれない。曰く、戦時インフレの端緒となったのが高橋の財政政策によるものであり、また国債の日銀引き受けという制度によるものだと。しかし著者が言うように、高橋は常々、財政拡大と政府支出の増加は急場しのぎの一時的政策で、日本が恐慌から脱出した際にはやめるべきものだと述べていたことを忘れている。そして次で見るように、様々な制約の中で高橋が断固として歳出拡張を求める軍部と戦っていたこと、その果てに暗殺されたことも考慮すべきだろう。さらに、高橋死後の急激なインフレが生じたのは、戦費調達のために著しく過剰な形での国債の日銀引き受けが行われ、それが公開市場で売却(つまり吸収)できなかったことが、貨幣の増発に繋がったことが理由である。高橋が編み出した政策の運用が不味かったことで政策を編み出した張本人の責任とするのは後の人間の傲慢でもあり、お門違いの批判だろう。
現代においても高橋の政策、特に国債の日銀引き受けに対する批判は根強い。勿論、非伝統的な政策をやらずに済むのであればそれに越したことは無いが、必要なタイミングであるにも関わらず運用の危険を殊更重視するのは誤りではないか。後世の人間の唯一の利点は、先人の勇気ある決断と行動を、その当初の状況だけではなく帰結に至る過程まで捉えることが可能だという点だろう。運用に問題があるのならば、単なる批判ではなく、運用をうまく行うための工夫こそ、後世の人間が考え、行動すべきことなのではないか。本書を読んで改めて感じた次第である。