2010年5月26日水曜日

「ケインズの経済学」とは何か?(その1)

現実経済は貨幣経済であり、我が国の長期停滞を考える場合に貨幣的現象が大きく影響しているのであれば、貨幣経済に正面から取り組んだケインズ自身の著作を再検討することが必要だろう。そして「ケインズの経済学」以後のマクロ経済学の潮流は、一般均衡理論の中における「貨幣」の位置づけを巡って展開しているようにも思われるのである。New KeynesianモデルがRBCモデルに硬直性を付加したものという見方は、まさに以下で見るケインジアンの反革命が繰り返し現れていると見ることもできるのではないだろうか。
以下では、小手調べに花輪俊哉監修『ケインズ経済学の再評価』の中から花輪俊哉氏による簡潔なまとめ(序:ケインズ経済学の再評価をめぐって)の印象に残った部分を纏めてみることにしよう。

1.異端の書『一般理論』
・ケインズの経済学が正当化される課程で、ケインジアンの経済学が確立されたが、そこでは次第にケインズの革新性が薄れてきたと思われる。
・政策面では、「不況の経済学」として不況克服に効力を発揮したケインズの経済学も、インフレ期に入ると、その政策の有効性に疑問が提示されることになった。新古典派総合といった混合経済観もケインズの経済学の革新性を薄めた。
・正統派の目でケインズの理論を見た当初は、それは異端的に見えた。しかし、それを正統派の立場で矛盾なく解釈しようとする試みは、究極のところ、ケインズの理論の本質をも見失わせることになってしまうだろう。それこそケインジアンの反革命の姿である。
・ケインズの理論は正統派理論を批判するというよりも、むしろそれを拡充し、完成させるものと考えられるのである。

2.ケインジアンの反革命
・ケインズの理論の中に正統派理論を包摂することが是認されるには、ケインズ理論の中に新しいパン種が含まれていなければならない。新しいパン種とは、資本主義経済が、すぐれて貨幣経済的性格を持っているという認識である。
・正統派古典派モデルの場合は、実物市場はその枠内で均衡し、貨幣は実物市場に何ら影響を与えず、相対価格が決定される。貨幣市場では相対価格が何ら関係せずに、貨幣量所与の下で物価水準が定まる。
・ケインジアンのモデル(IS-LM)は固定価格の想定が入っており、貨幣経済論として不十分であるだけでなく、ケインジアンによる反革命を示すものと見なされるようになった。結局、ケインズの理論は正統派の部分理論と解されることになった。つまり、ケインズの理論は正統派の「特殊ケース」として位置づけられるものの、現実経済の説明力が優れていることによって評価されるという主張である。

3.マネタリストの反革命
・ケインジアンの反革命は、ケインズの主張を正統派の理論的フレームワークで解釈しようとした結果生じたものである。この反革命は意図的なものではなかった。
・しかしマネタリストの反革命は意図的なものであり、反革命は「フィスカリストかマネタリストか」、「裁量かルールか」といった形でなされているが、本質的な対立は、貨幣の供給方式による。
・ケインジアンは自由裁量、マネタリストはルールに基づく形で、貨幣を供給する。この背景には、ケインジアンは実物経済秩序は本質的に不安定と認識する一方で、マネタリストは貨幣的撹乱さえなければ、実物経済秩序は本質的に安定的であるというビジョンの違いである。
・マネタリストが貨幣として重視したのは現金通貨だが、ケインズやケインジアンは、銀行の創造する銀行貨幣が重視されるべきものと考えた。銀行行動の重要性は無視出来ない要因だろう。

4.貨幣と貨幣経済
・IS-LM分析が貨幣経済の分析として不十分ではないかという疑いは古くからあった。つまり、貨幣経済における不均衡状態では、期間中の総期待支出がその期間における総所得に等しい必要はなく、貨幣需要関数は所得の関数というよりは、寧ろ期間中における計画的消費支出及び投資支出の関数とすべきと主張されているのである。
・IS-LMモデルでは、期待収益の増加によりIS曲線がシフトしたとしても、LM曲線はシフトしない。金融動機モデルは、IS曲線のシフトはLM曲線をシフトさせることになる。こうして金融動機モデルは、IS-LMモデルと同様に、貨幣部門と実物部門を二分できないと考えているのである。
・以上はP・デビッドソンの分析だが、クラウワーやレィヨンフーヴッドの分析はよりミクロ理論的アプローチであった。彼らは、ケインズの経済学を「貨幣は商品を買い、商品は貨幣を買う。しかし商品は商品を買わない」という貨幣経済の理論としてとらえた。そして、彼らは観念的需要と有効需要とを区別し、有効需要の問題は不均衡状態において意義を持つこと、またここでの貨幣の機能は、まさに不確実性下における交換手段としての貨幣の機能であり、情報コストがゼロと考えているワルラス的一般均衡と区別されなければならないと考えた。
・ワルラスの模索課程の理論では、競売人が想定され、需給一致がなされない限りは取引が成立せず、不均衡価格に対応する需要量は観念的な世界での出来事とされている。しかし、観念的な世界は現実世界ではない。
・現実の世界では不均衡下でも取引が行われるのであり、そのような競売人は存在しない。競売人の存在を否定すると、均衡価格情報を市場参加者に伝えるという情報面における障害が存在する不確実な社会を想定することになり、そこにおいてまさに貨幣経済の特色が見られると考えられるようになった。なぜなら、「貨幣の重要性は、本質的にそれが現在と将来とを結ぶ連結環であることから生じる」からである。

5.所得制約と合成の誤謬
・クラウワーやレィヨンフーヴッドの分析は、ケインズ理論を貨幣経済の理論として見直すことを強調するのみならず、所得制約(「二重決定仮説」)を重視するところに特色がある。
・ケインジアンの反革命においては、ケインズ理論は賃金・価格の硬直性を課程した一般均衡理論と考えられたのだが、クラウワーやレィヨンフーヴッドは、本来のケインズ理論では賃金・価格の硬直性は政策的勧告であって行動仮説ではないと主張する。ここに価格調整型経済から数量調整型経済への転換が見られた。
・数量調整型経済といっても、賃金・価格の硬直性という厳格な仮定は必要ではなく、即時的価格調整という古典派の厳格な仮定をやめることで十分とされる。そして「制限された価格調整速度」の説明として、独占や労働組合の団結といった制度的制約をもってくる必要はなく、「情報伝達機能を有した競売人の存在を否定すること」が指摘される。以上から、所得制約(「二重決定仮説」)は、貨幣経済と密接に関連していることがわかる。

・所得制約の重視は有効需要理論の意味を明確にさせたのだが、ケインズ理論における制約はこうした種類だけではない。「合成の誤謬」への言及からも明らかだが、個別的合理性が必ずしも社会全体での合理性に繋がらないという認識は、一つの社会的制約の存在を示しており、かつ従来の一般均衡理論とは大きく異なるところである。
・よって、ケインズの経済学の再評価は有効需要の再評価のみならず、「合成の誤謬」にみられるような社会的制約の分析まで拡充されなければならないだろう。この点で、クラウワーやレィヨンフーヴッドの分析は不十分である。
・さらに、クラウワーやレィヨンフーヴッドの分析は、労働市場における所得制約の分析に留まっていた。還元すれば労働市場における需要不足が財市場における需要を制約するのである。一方、パティンキンの不均衡分析では財市場における需要不足が労働市場における需要を制約するケースが分析されていた。バローとグロスマンは、両者のモデルを統合することで、不均衡分析の一般化を図ったが、そこでは在庫調節による需給調整が適切に論じられているとは考えられない。

・ケインズの経済学におけるストック調整は、主に金融資産について行われた。金融資産の累積が進むにつれて、証券価格の変化(利子率の変化)はキャピタルゲインやロスを生じさせるおそれがでてくる。よって、ケインズ理論は貨幣経済理論を超えて金融経済の理論となっていると考えられる。

2010年5月17日月曜日

田中秀臣『デフレ不況 日本銀行の大罪』を読む

我が国がデフレに陥って早10年が経過した。「失われた20年」とも呼ばれる長期停滞に、このデフレが大きな影響を及ぼしていることは言を待たないだろう。本書は、デフレに最も大きな影響を与える金融政策、日本銀行について論じた書籍である。

まず一読して感じたのは、「デフレ」という現象と「デフレ」に決定的に影響を与える日本銀行について様々な視点から論じられていることだ。

第一章は「日銀理論」について手厳しい批判がなされる。デフレに最も影響を及ぼすのが日本銀行の金融政策であるにも関わらず、現下のデフレに責任が全く無いと主張する総裁、経済危機やデフレに関する当事者意識のなさ、政府によるデフレ宣言以降の迷走、必要以上にバブルを懸念する政策スタンス、イエスマンが横行する組織、といった特徴が指摘される。

この日銀の金融政策は世界からはどのような眼で見られているのか。第二章は日銀の金融政策について、バーナンキ、スティグリッツ、クルーグマンといった世界的な経済学者の処方箋を紹介しつつ批判を加えている。彼らのアドバイスは、インフレは起こすことが可能で、デフレから脱却するにはインフレ期待を起こすことが必要で、インフレ期待を起こすにはインフレ目標にコミットし、その目標が信認されることである。日銀は「インフレ目標」を超えた政策を行っていると自称しているが、未だデフレにある中で何を誇ることが可能なのだろうか。著者の言うとおり疑問は尽きない。第二章とあわせて第六章を読めば理解が深まるだろう。

第三章は歴史からの教訓、つまり昭和恐慌の経済政策を扱っている。1920年代の失われた10年の後に我が国を襲った昭和恐慌は、マイルドなデフレが続くという内的要因が世界大恐慌という外的要因も相まって当時の日本経済を深刻な不況に落としめたという意味で、現代の不況と共通点を持つ。昭和恐慌の経済政策の経験は、デフレ脱却には金融政策が有効で、特に深刻な不況においては財政政策と金融政策のポリシーミックスが有効である、そしてこれらの政策により人々の期待を変えることが必要であるということだろう。更に高橋財政における「政策レジームの転換」の経験は、現代日本において「デフレは構造問題」「資金重要がない中で日銀がいくら資金供給しても無駄」という「日銀理論」から、「デフレは日本銀行の責任で解決する問題」で、「断固としてデフレに立ち向かう」という能動的なレジームへの転換を意味するという指摘は至極真っ当である。そしてこの指摘や経験通りの政策こそが、第二章の経済学者の提言を活かしつつ、今回の金融危機において実際に各国が行ってきたことではないか。

第四章は、日本銀行、失敗の戦後史と題して、日本銀行の戦後史を敷衍している。70年代前半期の狂乱物価の経験と論争はインフレには原油価格の高騰ではなく、マネーの増大が影響することを確認させた。70年代後半からプラザ合意以前の日銀はマネーの伸びを指標として堅実な金融政策を行った金融政策の黄金期であると言えるだろう。この時期は安定成長期と呼ばれるが、プラザ合意以降の円高が日銀に過度な金融緩和を行わせることになる。そして、悪名高い「バブルつぶし」が行われる。当時の日銀の主張は、インフレに対処するための利上げというものだったが、当時のインフレ率は懸念すべき水準で無かったのは明らかだった。そして政策金利の引き下げは小出しになされ、ひいてはデフレ下のゼロ金利政策の突入と、その後の早すぎる解除という形で失敗が続く。

第五章は「構造改革主義」についてである。「構造改革主義」とは、我が国の経済低迷の主因を構造的問題によるものとし、経済停滞の解決を構造改革によって行うことを意図している。著者の言うとおり、自分も構造改革が02年以降の景気回復を成し遂げた訳ではないし、構造改革による潜在成長率上昇という指摘自体が誤りであると考えるためである。潜在成長率自体は政府がコントロールできないため、政策が効果をもたらすという判断は不可能だし、いくつかの実証研究を見る限り、構造改革によって潜在成長率は大きく向上してはいない。将来に関する潜在成長率の高まりの期待が現在の成長を促すという視点もあるだろう。但し当時の小泉政権での成果は十分なものではなかった。
そして、90年代以降常に同じ悩みを政府が抱えているように思うが、財政難の中で反対にさらされつつ、苦労して経済対策を行ったものの、効果は少なく、かつ民衆からバラマキと批判される始末である。なぜ金融政策の重要性に気がつかないのか、疑問に思うところだ。

第七章は「リフレ政策-デフレ不況の処方箋」と題して、包括的に政策メニューが提示された上で、様々な政策について議論がされている。これはリフレ政策について興味をもつ人にとっても(興味を持たない人にとっても)便利かつ有益だろう。勿論、「具体的手段がない」と発言する政策担当者にとっても有用である。著者が最後の箇所で述べるように、我が国の「失われた20年」を脱却するには、政治の力が必要だろう。それは、政策手段の迅速な選択においてもそうだろうし、日銀と政府との適切な強調を達成する上においても、日銀の失敗を認めさせ、断固としてデフレと立ち向かう組織へと変貌させるためにも必要だ。既に20年経った。いい加減もう動いても良いのではないかと本書を読んで感じるのである。

以上が本書を読んで印象に残った点である。さて、本書を読んで次に感じた特徴は、著述のわかりやすさだ。流れるように読めるので短時間で読めてしまうのだが、実はそれぞれの議論の奥は深い。本書を読んで当時色々議論したり考えたりしたことが蘇って良い読書体験をさせて頂いたが、関連して過去の議論が包括的に纏められている点も有用だろう。

以上、簡単に本書で印象に残った箇所にふれながら感想を書いてみた。「デフレ不況」の内実と処方箋について興味を持つ方は是非本書を手にとるべきである。デフレから脱するには、政府の力が必要だし、力を行使することも可能で、それを成さしめるのは民衆の力でもある。

この文言は5年前にも書いたことがある。「不可能だ」と安全な場所からニヒルに構えるのも結構だ。だが、デフレを容認し、政策の失敗を幾多の暴論と妄言で糊塗した挙句に、政策の失敗の結果である長期停滞を容認せよという理屈に本当に納得することができるのだろうか。私には無理である。

「異常」な政策の奥底には、常識や政策の当否で捉えられない人間・組織の行動が介在するものだ。著者があとがきで書いているように、政策の当否のみならず日本銀行を批判することの政治経済学的難しさや民主的な統制の失敗にまでクローズアップせざるをえない現実こそ、問題が深刻化している証左と捉えるべきだろう。