2010年11月19日金曜日

牧野邦昭『戦時下の経済学者』を読む。(その1)

 本書は、第一次大戦及び第二次大戦における「総力戦」に直面した日本の経済学者たちの行動や言説について扱っている。本書の着眼点として面白いのが、本書が通常の経済学史や経済思想史といった体裁を目指すのではなく、「経済学の社会史」を目指すという視点だろう。つまり、個々の経済学者の思想や行動が、現在の視点からみて当時の社会や経済学の動きの中でどのような役割を果たしており、最終的にはどのような形で総力戦体制に取り込まれていったのかという視点である。着眼点の面白さとともに、本書の試みは個人的には成功していると思う。
  本書ではこの視点が、第一次大戦下における河上肇の反応と思想について、陸軍及び海軍の経済調査とその利用、日中戦争以降の経済新体制を巡る論争、思想対策の手段としての経済学と近代経済学の成立・経済学の制度化、そして高橋亀吉と第二次大戦という5つの論点を通じて描かれる。まずは本書の第二章までの内容についてまとめてみよう。

1.第一次大戦下における河上肇の反応と思想について
本書でまず語られるのが、第一次大戦における河上肇の反応である。河上の見る所では、ドイツがイギリスにより海上封鎖を受けながら戦いを続行できたのは、一切の奢侈を廃止したためであった。これは河上の年来の持論でもある「奢侈品への需要が「資本の無駄遣い」に繋がる」という主張である。
資本蓄積が不十分な日本が、西欧列強諸国と伍していくには、奢侈品への需要を必需財への投資に回すことで貧乏を無くし、成長力を高めることが必要となる。このための方策として河上は、国民の精神の改造(利己主義から利他主義)といった人道主義的発想からの社会変革と、社会主義的な組織改造、つまり生産権を天皇に奉還し「事業的資本家」が「国家直属の官吏」となることで国民が心を一つにして「国家社会」のために働き、分に応じて給与を得て貧困線以上の生活水準を維持するというもの、の二つを指摘する。社会主義的な組織改造とは、戦時下の総力戦体制を平時の経済体制に適用することを意味し、そして「国家社会主義」の発露は、河上の持つナショナリストとしての側面を表したものでもあった。

2.陸軍及び海軍の経済調査とその利用
そして第一次大戦に衝撃を受けたのは、河上肇だけではない。日本の陸軍においても第一次大戦はこれまでの戦争とは大きく異なるものとして受け止められた。国家の全てを戦争に向けさせる総力戦では、膨大な軍需や民需を支えるための経済力(生産力)を拡充することが必要となる。来るべき総力戦に備えて陸軍では経済学を分かる人材を要請する必要が生じるが、秋丸次朗や池田純久といった人々は、陸軍秋丸機関での分析や『国防の本記と其強化の提唱』といった形で、影響を与えていくことになる。
本書によれば、陸軍秋丸機関の設立は昭和14年のノモンハン事件での敗戦が直接の契機であり、当初の意図は「石井細菌部隊」に匹敵する「経済謀略機関」を作ることであった。秋丸機関に協力した有沢広巳、中山伊知郎ら経済学者の出した結論は、「英米との戦争は短期ならギリギリ可能だが、長期戦は困難で、英米に依存する日本が英米と対立することは経済的破綻をもたらす」というものであった。だが、この結論は陸軍側にとっては既知であり、寧ろ限界を認識した上で米国経済の弱点を考察することが経済学者には求められていたのである。そして、秋丸機関の研究成果は戦争遂行上の戦術的な問題として利用され、参加した学者もそれに媚びて、英米の経済力も「突き崩せないことはあるまい」という視点を補強するものとして利用された。
海軍においても陸軍と同様の動きはあった。秋丸機関や海軍のブレーン・トラストの活動は、当時の代表的な経済学者達を総動員したものであり、経済学者の大半は何らかの形で戦争に関わっていた。先述したように、経済学者の出した結論は陸軍にとっては既知であり、戦争目的の前に都合よく利用された側面がある。ただし一方で有沢や中山の経験は、戦後の「傾斜生産方式」や産業政策的な発想という形で受け継がれていくことになるのである。

3.「経済新体制論」を巡って
三番目の論点が、経済新体制を巡る論争についてだ。当時様々な「経済新体制論」が登場したが、問題は、それらの理論的な背景が顧みられることなく、「革新」か「現状維持」かを巡る政治的・イデオロギー的争いにより、真に望ましい経済体制を巡る議論が不可能になったことである。
経済新体制論としてまず取り上げられるのが笠信太郎『日本経済の再編成』だが、これは昭和研究会が1939年に作成した「日本経済再編成試案」が基となっている。笠は、企業の目的を利潤本位から生産本位に変更させ、当時のインフレを緩和するために公定価格を維持して、利潤率の統制、資本と経営の分離、技術の全面的公開、需給の自主的統制が必要だと訴えた。
次に取り上げられるのが柴田敬の日本経済革新案である。日本経済革新案は柴田自身の独占資本主義に関する理論的研究に、作田荘一の国家論及び満州国の統制経済の体験が加わったもの、というのが本書の整理だろう。ケインズ『一般理論』における柴田の認識に基づけばマクロ経済政策の鍵は金融政策である。しかし河上肇『貧乏物語』の視点に影響を受けた柴田の問題意識-独占資本主義の進行による一般利潤率の低下という日本の現実-を踏まえれば、投資は増加しないため金融政策による利子率低下は景気対策として無効となる。期待利潤率の低下による通貨供給の無効性といった独占資本主義の弊害が、日本経済を動脈効果に陥らせ、生産活動の萎縮と失業の増大を伴いつつ、社会不安が拡大する。更に独占資本主義は植民地を求めて国際的緊張関係を高めていき、これらが因果の双方に作用して日本経済を停滞させるのである。以上のような柴田の認識からすれば、資本主義体制の変革の必要性を柴田が主張するのもやむを得ないことなのだろう。
以上のような笠や柴田の経済新体制の必要性に関する主張に反対の論陣を張ったのが、山本勝市である。山本は柴田と同様、河上肇の『貧乏物語』に大きく影響されるが、人為的に秩序を作り経済を管理しようとする社会主義については懐疑的であった。それは山本の「巨大な社会」についての議論にもうかがえる。つまり、「巨大な社会」とは現代社会が原始共産体のような「小さな社会」とは異なっているため、社会主義は実行不可能というものである。山本の議論は戦後ハイエクが展開した「グレートソサエティ」論を先取りしたものと言えるが、河上は山本の批判には直接答えることはなかった。
山本は河上の「奢侈品の廃止により生じた富者の余裕資金を利用することで、生産必需品を安価かつ大量に供給することが可能になる」といった議論には同意していた。しかし、社会変革に関する思想という意味では再び両者の考え方は異なってくる。河上は第一次大戦という総力戦を参考にしながら経済組織改造と人心改造の二頭立てで社会を変えることを考えたが、山本は先に見たように社会主義的な視点からの経済組織改造を否定した。一方で山本は河上と同じく人身改造により「皇国の隆昌という見地から価値判断がなされた需要」を行うことを主張する。つまり、山本の主張は『貧乏物語』の一バージョンなのである。
「経済新体制論」を巡る論者のその後はどうなったか。山本の経済新体制論批判は財界や鳩山一郎といった政党政治家、観念右翼に影響を与えていき、山本の論文は各方面に配布され経済新体制論批判に用いられるようになる。笠はこうした批判・攻撃から逃れるためにヨーロッパ特派員となり日本をはなれ、経済新体制確立要綱には利潤原理を認めることが明記された。
一方で新体制推進側からの反撃により、山本の著作『計画経済批判』は勧告絶版となる。その後山本は文部省国民精神文化研究所の退職を余儀なくされ、明朗会や陸軍参謀本部部員らとともに条件付講和に持ち込もうとする終戦工作を行うことになる。終戦後、山本は鳩山一郎に誘われて政治家の道を歩む。吉田・鳩山抗争の際に、山本は石橋湛山の政治的同志として行動し、ともに経済政策案の検討を行っている。この経済政策案は自由主義的なものであった。
最後に柴田についてみよう。柴田は公職追放後、教職に復帰したが、政治に関与することはなかった。戦後には、現代の環境問題の先駆けとなる着想を理論化することに力を注いでいる。
さて、ここまで読み進めてみて自分が感じた点を一言で述べるとすれば、河上肇の影響力の大きさがこれほどのものだったのかということだ。「総力戦」の重視と「資本蓄積が他の一等国と比較して不十分である」という認識がもたらした影響については、例えば対外進出の必要性への認識といった視点や、旧平価での金本位制維持の背景にあったと思われる国際金融資本体制の重視といった視点にも影響したのだろう。
いわゆる近代経済学者の役割はどうだったのか、経済学者の「思想」が当時の社会の中でどのように作用したのか、という本書の残りの論点については次回以降でまとめてみよう。

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