2010年12月27日月曜日

深津真澄『近代日本の分岐点 日露戦争から満州事変前夜まで』、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』

書籍買い込み日記と化しておりますが、順調に本だけは購入しています。

まず一冊目は石橋湛山賞を受賞された深津氏の本。随分前に買おう買おうと思っていたのですが、書店に行くたびに忘れてしまう状況だったので、やむなくamazonで一冊在庫が残っていたのを購入しました。この本の問題意識は「はじめに」で記載されているとおり、大正時代をどう捉えるかという視点でしょう。戦前における戦争への道を記述する文脈では、満州事変以降のわが国の姿が取り上げられることが多い訳ですが、大正時代、更に俯瞰すれば日露戦争の成功から考えていくことが必要という訳です。本書では、日露戦争の外交上の立役者であり、韓国併合への道筋を決めた小村寿太郎、そして大正期の代表的な政治家である加藤高明、原敬、田中義一、さらに「大日本主義」を否定し「小日本主義」を唱えた石橋湛山の年譜とその生涯、成し得た事を探りながら、近代日本の分岐点足る、大正時代の持つ意味を探ろうというものです。
以前取り上げた高橋亀吉『大正昭和財界変動史』にも記載がある所ですが、日露戦争後の時代というのはその後の失敗(経済的には「失われた10年」とも言える1920年代)に繋がる序章という意味でも、とても重要な側面を持っていると思います。日露戦争後の経済的負債により破綻しそうな局面にあった日本経済が、第一次大戦という好機を得て、バブル経済が勃興し(無論そのバブルは産業毎にバラツキがあるもので、そのバラツキはバブル崩壊後の停滞においても明らかにある事は、高橋の前掲書に詳細に記載されているとおりですが)、その経済的負債を帳消しにした事、バブルが崩壊する中で、数々の恐慌に見舞われ、財界が変動に見舞われること、こういった動きと為政者の政策や行動、公衆の考え方や運動といった要素が時代のうねりとして屹立している。こんな話を自分の頭の中できちんと再構成した上で自分の言葉として昭和をはじめとする過去の時代を語ってみたい、というのが目標なのですが、果たしてそうなりますかどうか。

二冊目は、佐々木中氏の本。佐々木さんの本は初めて読むのですが、全体が5章構成で、そのひとつひとつが誰かに語りかけるという体裁で書かれたものです。批評家と専門家という2つの知の悪しき形状について指摘をされた第一夜のみ読みましたが、大雑把に言って、佐々木さんが主題とされている「本」に足る「本」を探すのが現代では困難になっているのではないか、という気もします。そして真に「本」足る「本」をまともに「読む」という行為を行う場合、その行為は作者との真剣な対話によって時には読者を狂わせるものかもしれないし、奇妙な彷徨と愉悦と熱狂を孕むもので、それは神をもうらやましがらせる人の営みなのかもしれない。そのような愉悦と熱狂と彷徨を孕む体験ができる人は現代においてはほぼ皆無で、(本を「読ま」ない)文盲から(本を「読め」ない)文盲への情報伝達のツールとして「本」が大量生産されているのかもしれない。レベルとしては大なり小なりの違いはあるにせよ、そういう話かもしれないなぁ・・と感じた次第。続きがどう繋がるか、私を含む世間の文盲に対する一筋の光明が切り開かれるのか、そんな所が楽しみな本です。
経済学徒と自称することをお許し頂けるのであれば、偉大なるケインズのひそみにならい、パンフレットとして書きなぐる事を目標としているのが私です。ご覧になる方からすれば、チラシの裏かもしれませんが・・本人は大真面目に書いているのです、ということで後日全て読みましたら感想を書きたいと思いました。

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