週刊エコノミスト臨時増刊2010年11月15日号に収められたこの論文は、「通貨戦争の泥沼」と題された増刊号の中で必読の論文の一つである。若田部氏は現在の経済危機について、歴史についての確かな知見の必要性を訴える。それが、巷間言われる「通貨安競争は悪である」という誤解についてだ。
通貨安競争は悪であるという誤解とは何か。それは、大恐慌時の通貨安競争がブロック経済化と貿易縮小を生み、世界的な大不況につながったというものである。この文脈からは、為替介入を行ったわが国は悪であり、わが国の行動を認知してもらうためには各国の理解、つまり協調が必要だということになる。このような筋書きはマスコミの報道でもよくなされるところだ。
しかし、このような通貨安競争は悪であるという日本の論者の認識と欧米の論者の認識は異なる。若田部氏はその認識の差は「知識のギャップ」にあるという。つまり、大恐慌を説明するための学説としては、現代は国際学派と呼ばれる知見があることが浸透されていないため、「為替切下げ競争」をめぐる政策論議に混乱が見られるというのが、氏の議論である。
国際学派とは、大恐慌が世界中に伝播する際の国際通貨制度が果たす役割に着目するというものだ。
つまり、米国の景気後退は1928年頃から始まったが、これが世界的な不況になった大きな要因の一つが金本位制という国際通貨制度であった。大恐慌は金本位制という制度を通じて伝播し、これからの離脱が早い国ほど、大恐慌からの回復も早かった。金本位制は資本移動の自由と固定相場制の2つを採用することに等しいが、金本位制の元で不況が生じると人々は金という安全資産に逃避するため、金が対外・対内的に流出する。そこで、中央銀行は不況にもかかわらず金利を上げざるをえなくなってしまう。結局、不況が深化して大幅なデフレ不況となる局面で金本位制に縛られることで金融緩和が出来なければ、経済停滞は長期化してしまうという訳だ。
為替切下げ競争についてのポイントは、金融緩和を伴うか否かを区別するということだ。金本位制のくびきから逃れ、資本移動の自由化と固定相場制の変わりに、資本移動の自由化と自律的な金融政策の2つを選択するという形で手段を組み替えれば、金融緩和の結果として為替が切り下がっても、相手国も同様の手段をとることで金融緩和の効果が自国及び相手国に行き渡るという「近隣富裕化効果」になる。
現代は、わが国を含む主要国は、固定為替制を放棄し、資本移動の自由化と自律的な金融政策を「国際金融のゲームの手段」として採用している。円高が定着しつつある局面では、為替介入ではなく金融緩和を行えば良いのであって、「米FRBの金融緩和策が円高の原因だ」というのならば、わが国も金融緩和を行えば良いのである。このあたりは若田部氏の本論文の最後の主張、「第二次世界リフレ競争に乗り遅れるな」というものに繋がる考え方だ。
先に通貨安競争に関する認識のギャップの鍵として、若田部氏は「知識のギャップ」という点を指摘していることにふれた。では、この「知識のギャップ」、言い換えれば通念とも言える考え方はどのように形成されたのだろうか。論文によれば、この通念に寄与した考え方はラグナー・ヌルクセによるものだと若田部氏は言う。
ヌルクセの引き出した教訓は、為替レート調整が頻繁に行われた事が国際貿易体制の崩壊につながるというものだ。そしてヌルクセは、為替レートの対外的均衡と国内の政策目標追求の2つを整合的に解決する仕組みを構想するようになる。この理解を前提とすれば、30年代を通じて、各国は失業など国内の政策目標を追求するようになり、そのために対外経済が犠牲になり、経済のブロック化が進み混乱が助長されたということになる。この理解が正しくないことは、先の国際学派の知見からも明らかだ。更に言えば、ヌルクセの考え方は、ブレトンウッズ体制の構築にも共鳴するものだが、現代の国際通貨制度は、ブレトンウッズ体制の崩壊の経験を通じて築かれた事にも留意すべきだろう。
若田部氏の著書『危機の経済政策』にも書かれているが、「歴史は韻を踏む」のであって、同じ事実が繰り返される訳ではない。しかし歴史上の事実についての「知識のギャップ」を埋めないことには、通貨安競争においてわが国が正しい判断を下すことも難しいだろう。独断に陥るのではなく、現代の国際金融におけるゲームのルールを正しく把握するために、歴史が語るものについて謙虚に耳を傾けることこそが必要なのではなかろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿