2010年10月27日水曜日

リチャード・J・スメサースト『高橋是清 日本のケインズ-その生涯と思想』を読む(その1)



 本書は高橋是清の誕生から暗殺までを丹念に辿ることを通じて「日本のケインズ」と呼ばれる稀代の財政家の足跡、およびその足跡を育んだものとは何かを論じている。

著者は最初に、本書の主たる目的として、高橋是清という人格の形成過程を明らかにすること、公職についた高橋がどのような形で独特の思想を育むに至ったのか、大恐慌時の財政金融政策をどう評価するか、そして高橋の政策が軍国主義の台頭に与えた役割、の4点を大きな論点として挙げる。(その1)では最初の2点について纏めてみたい。

1.高橋是清という人格の形成
本書でまず指摘されるのは、独学の財政家、政治家としての高橋の学びの形跡をたどることである。この点に関しては、著者は高橋が狩野派の絵師であった川村守房と北原きんとの非嫡出子として生まれ、幼くして武士階級として最低の身分であった足軽の高橋家に養子に出されるという特異な教育環境を挙げる。封建制末期における武士の師弟は、朱子学か蘭学を学ぶのが通例であったが、幼少期の高橋はこういった教育を受けておらず、寺子屋にすら通わなかった。読み書きは祖母喜代子及び繋がりのあった寿昌寺で身につけたものと考えられる。そして、高橋の後の世代の人々がそうだったように、東京帝国大学や慶應義塾といった高等教育機関で西洋人や西洋で教育を受けた正規の教員から専門的教育を受けることも無かった。

では高橋は何を学んだのか。高橋が身につけた唯一の実用的技能は英語である。高橋が学んだ英語は、福沢諭吉のように書物を読んで丸暗記したものではなく、井上準之助のように東京帝国大学にて正規の教育を通じたものではなかったが、英語を母国語とする人間から直接学んだことで、高い会話能力を身につけるに至った。

幼い時分から外国人に囲まれ、日常的に会話をするという経験は、外国人に対する無用の恐れ・気後れを払拭するのに役立った。そして幼い時から、西洋から学ぶことで日本を豊かで強い国にすることに生涯を賭した人々と親交を結ぶことができた。更に、英語は高橋を幾度かの窮地から救い、そして彼を国際的舞台へと押し上げる役割を果たした。

高橋を取り巻く環境は、封建末期の古典的教育や近代の正統的教育に囚われない価値観を持つことを促し、そして書物を読み、他人と話し、学ぶことに対するあくなき欲望を持つに至らしめた。子供としては型破りな暮らしは、超然とした客観的な思考をもたらす事の助けになった。時代の因習に惑わされず、問題を客観的な外からの視点で見て、現実的な解決策を見出し、実行するという能力はこうした環境で磨かれたのである。

高橋の人格形成には、勿論、幼年期から青年期の稀有な体験も大きな影響をもたらしただろう。高橋は、13歳にしてサンフランシスコに旅立ち、3年間の強制労働を伴う契約書にサインしてしまったが、14歳の時に強制動労から逃れることができた。帰国後にも騒動に巻き込まれるが、難を逃れることができた。

高橋の人生は困難な課題への挑戦と克服の過程でもある。これを乗り越える事ができたのは、高橋が勇敢な人であったためだと著者は言う。その通りだろう。

2.公職にあった高橋是清の努力
 高橋が最初の公職に就いたのは、前節でもふれた英語力のお陰である。高橋は14歳で大学南校の教師という職に就く。実践的な英語の知識は、明治政府のお雇い外国人(シャンド、フルベッキ、グリフィス、モーレー)との親交を育ませることになる。そして、政策上の問題では考えが必ずしも一致していなかった伊藤博文、井上馨、山県有朋、松方正義といった明治の元勲から重要な仕事を任されるようになった。農商務省にて、日本最初の特許と著作権に関する法令を起草したり、改正する仕事を担当することになったのも英語力が大きく影響した。
 
  著者は、高橋に大きな影響を与えた人物として、前田正名とジェーコブ・シフの二人を挙げる。

前田は、松方大蔵大臣によるデフレ政策の最中に、伝統的な地場産業に基礎をおいた経済成長を提言した人物である。『興業意見』として纏められた提言の中で、前田は、西洋から重工業を日本に移植させる過程で、中央や財閥を潤わせる形での経済成長ではなく、自作農家や地元の小規模企業家が利益を得ることが可能になるような経済成長が必要だと論じ、松方を激しく批判した。

著者は、高橋が前田と付き合う中で、国民の生活水準を引き上げることが経済発展の主な目的であり、これにより更なる発展が促進されるとする思想を捨て去ることはなかったと述べ、高橋が大蔵大臣として採用する経済的発想法、つまり賃金が上昇すれば消費と需要が増加し、更なる消費と需要がもたらされるという乗数効果の概念を考え始めたのだと論ずる。そして、前田は高橋の思想の中に、経済成長は軍備よりも重要だとする信念を植えつけた。山県と彼の後継者達は「国防は本で財政は末なり」と主張したが、高橋は逆に考えていたのである。

更に、高橋は、市場の情報に依存しながら現場で意思決定することが効率的であることを前田から学んだ。この点、高橋が中央の指示により匡救事業を進めることに強い疑念を抱いていたこと、昭和恐慌の最悪期から脱する局面において、高橋が現場主導の分散的な意思決定と、草の根の市場情報に注意深く配慮することを通じて、地域経済の発展を重視する姿勢に回帰していたという著者の指摘は興味深い。

シフの影響も重要である。高橋は日露戦争に伴う外債募集の交渉を行う過程で、日露戦争中は主としてイギリスに、第一次大戦後は主としてアメリカに依存していることを知る。英米独仏の金融家は、日本がロシアに勝つための戦費の47%を用立てた。シフとウォーバーグは日露戦争中の日本の資金調達額の4分の1以上を引き受けたのである。ロシア海軍を粉砕した戦艦の大半は英国で作られたものだった。軍艦を動かす石油はシェル石油から購入したものであった。結局、高橋が得た教訓は、英米は日本が最も恩恵をうけている同盟国であるということだった。

そして、対華21ヶ条要求における加藤高明外相の対応に高橋が反対したことからもわかるとおり、日本は統一された中国との「自然な同盟関係」から利益を得ることができると、英米両国が考えているということであった。外国的圧力や借款、軍事介入により中国を分割することは、中、英、米、日の同盟国の関係を脅かすことに繋がる。高橋が首相在任中においてワシントン軍縮条約交渉に参加して示したように、英米を中心とする陣営に参加することで、日本は資本、市場、技術、天然資源、保護を手に入れることができた。英米との対立、日本独自の外交路線を提唱する勢力は、日本をこのような利益から遠ざけ、そして結局日本は勝つ見込みの無い戦いに突入するという災厄を自ら招いたのである。

更に、海外から借金をするのであれば、金融面の責任を果たさねばならないということもシフから学んだ重要な教訓である。高橋が1932年から35年にかけて財政政策を行ったが、長期的には日本は予算を均衡させる必要がある。海外における信用維持のためには軍事支出を抑制することが不可欠だった。軍事支出の拡大・膨張は、制御不能なインフレや戦争の危険を増し、英米中心の世界における安全な避難場所と著者が言う中国を危険に晒すことでもあったのである。

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