(その3)では、(その1)及び(その2)で宿題となっていた二つの疑問、つまり高橋の財政政策と軍国主義との関係について、及び、なぜ高橋は時局匡救事業を1934年に終了させてしまったのかという点についての著者の議論を敷衍しつつ、感想を述べたい。
4.高橋の政策が軍国主義の台頭に与えた役割
(1)既存の4つの解釈から
高橋が行った政策と軍国主義の台頭との関係について、著者はまずこれまでの研究における4つの解釈をレビューしたうえで論を進めていく。
一つ目の解釈は、マルクス主義の立場に基づく解釈である。具体的には、高橋が独占的資本主義を代表する人物であるから、大蔵大臣として日本を資本主義の発展の最終段階である「国家独占主義」とファシズム、戦争に導いたというものだ。二つ目の解釈は高橋が属していた政友会が、経済的自立と中国に対する高圧的介入、軍事的拡張と積極財政を提唱していたという事実を強調するものである。そして三つ目の解釈は、日本の政治的な現実の下では、大規模な財政金融政策を行うにあたり軍事費を大幅増加させる以外に選択肢は無かったというものである。結局、高橋の財政政策は軍部に対する制約を解き放ち、潜在的に戦争への道を準備したという解釈だ。最後に四つ目の解釈は、高橋は軍国主義の台頭に対する責任はないというものだ。高橋は、外交軍事面における中国での対応や過度の軍事支出に反対しており、軍隊を政治的統制の下に置くために闘ったというのである。
著者は、これら4つの解釈のうち、高橋が「独占的金融資本」を代表していたために日本をファシズムや戦争に導いたという解釈は、「独占的金融資本」を代表するのが高橋のみに留まらず、高橋の政策と井上や浜口といった正統的な古典派による財政金融政策とを区別できないため問題があるとする。そして二つ目の解釈も論拠となる資料を表層的にしか見ていないとして却下する。三つ目の解釈については、高橋は軍事費を増やす場合においても常に軍部が要求する金額よりも少ない額を提示し、常に陸海軍大臣やその部下と戦い続けていたことが見逃されているという。
著者が真実に近いとする仮説は第4の仮説だが、いくつかの修正が必要であるとする。つまり、高橋は積極的な意味でも消極的な意味でも軍国主義や陸軍のアジア侵略を支持したことは無かった。だが、満州の征服は高橋が編成した予算によりはじめて可能となり、その意味では軍国主義と全面的な戦争の一歩を記したものだというわけである。
(2)軍国主義への反対姿勢の軌跡
著者は、軍国主義や陸海軍の対外侵略、過剰な軍事支出に対する高橋の反対姿勢の淵源を、日本の経済発展における前田正名の議論を支持した1885年当時から遡って論じていく。
前田の行動、そして前田の議論が明治の元勲達の手によって否定される様を目の当たりにしながら、高橋は、国を富ませることは強い軍隊を作るよりも重要なことであり、国を富ませるための第一義的な目的は、全ての日本国民の生活水準を引き上げることだと考えた。そして、経済発展の主役となるのは、中央政府の官僚ではなく、地元市場や生産技術に関する詳細な知識を持つ地域の企業家たちであると考えた。そして、強力すぎる軍隊は経済発展を阻害するのみならず、日本の安全保障にとって危険でさえある。中国に対して攻撃的かつ独自の外交政策は危険であり、それが米英と中国との結びつきを誘発させるのであればなおさらである。外交に関しては外交官が主導権を握り、軍人はこれに従うべきである。このように考えたのである。
高橋は、要職を歴任しながら、攻撃的外交政策、過剰な軍事支出、外国からの借り入れが日本の信用状態を脅かす場合には、一貫して反対した。英米との協調という考えに至ったのは、日露戦争において日本より豊かで強大な西欧諸国の協力が無ければ、経済的、外交的、軍事的にさえも日本の発展は無いということを外債交渉や欧米の金融家との交流を通じて知ったためであった。高橋は英米との戦争は軍事的にも財政的にも自殺行為であると信じていたが、西洋諸国に対する日本蔑視を他の日本人以上に不快に感じており、英米の価値観を卑屈に擁護したわけではなかった。むしろ英米の資本と産業の力を理解した堅実な現実主義者であった。
著者はこのように高橋が元々軍国主義に反対であったと論じる。そして30年代に蔵相になった高橋もそうであったと論じる。これはその通りだろう。本書では、齋藤内閣や岡田内閣といった政党政治家を首班としない内閣の中にあって大蔵大臣として闘った高橋の姿が具体的に語られていく。
確かに財政支出の拡大を行ったのは事実だが、高橋はこれをあくまで一時的なものと捉えていた。そして、高橋が予算編成に関わった1933年度から36年度までの4年間において国民所得の比率は6.5%程度で安定していたことも重要だ。つまり軍事費が増加したのは事実であり、そのきっかけを作るという意味で高橋の経済政策は一定の役割を果たしたのかもしれない。だがこれは、人々の所得に見合った予算を編成する必要があり、国防に(重点配分をするといった形で)焦点を当てすぎると、手に負えないインフレを惹起し、信頼を失うことになる、そうすると国防も保てなくなる、という高橋の基本的な考え方と整合的であったことに留意しなければならない。因みに、軍事支出の国民所得に占める比率が急上昇したのは高橋の死後である。37年に15%、41年に27%、44年には76%となる。つまり高橋が蔵相在任中には軍事費への重点配分などなかったのである。
高橋は1936年2月26日(2.26事件)に青年将校の手にかかり命を落とすことになる。津島寿一は回顧録の中で「一般告別式には、各階層の方々の参拝が踵をつぎ、群をなして押し寄せたという有様であった。その中には幼児を背に、子供の手を引く裏店のおかみさん風の人々が多数を占めておったのを見て、私は高橋さんに対する一般大衆の敬愛の念のいかに広くかつ深いものがあるかを、強く印象づけられていたのであった。と同時に、それは軍の一部に対する一種のデモンストレーションとも見取られたのであった」と書いている。『ニューヨーク・タイムズ』は高橋の死を悼む死亡記事を掲載した。高橋の死によって、戦前の軍国主義に対する「最後の抵抗」が取り除かれることになる。
5.高橋と時局匡救事業
最後に高橋と時局匡救事業との関係についての著者の議論を敷衍しよう。後世の学者たちは、恐慌期に高橋が時局匡救事業より多額の軍事費を支出しながら、時局匡救事業を1932年度から1934年度までのわずか3年間しか実施しなかったことを批判してきた。
著者の議論によれば、高橋は時局匡救事業を継続しようと試みたが、同僚の大臣であった三土忠造によって阻止されたという事情がある。ただし、高橋自身は、中央の指示により匡救事業を進めることの価値については強い疑念を抱いていた。日本の景気低迷が最悪期を脱しつつある中では、現場主導の分権的な意思決定と草の根の市場情報に注意深く気を配ることを通じて、地域経済の発展を重視する姿勢に回帰していたと著者は言う。以上の点は現代の公共事業のバラマキ論をめぐる政策議論を先取りしているようで興味深い。
6.感想
本書は高橋是清の生涯と思想を通じて、高橋が成し遂げたことの評価とその背景に何があったのかを体系的に論じた書籍である。高橋の人生は苦難の連続であり、それは生涯を通じてのものであった。だが、高橋は生来の楽観的な気質と幼い時から親しんだ英語の能力、そして封建的な教育を施されていなかったことが逆に利点となって、欧州、特に英米の知見を書物のみならず人々との関わりを通じて習得せしめるという、他の同時代人とは異なった次元を獲得するに至らせた。その点が日露戦争の外債調達の成功や、挫折を経た後の横浜正金銀行や日本銀行、ひいては大蔵大臣、政友会に所属する政治家といった形での栄達の道をもたらしたのであろう。
そして英米との交わりは、高橋にニヒリスティックではない、リアリスティックな形での日本の立ち位置を認識させ、そのことが自国の経済発展、特に国民の所得の向上を旨とする政策観と、対外関係としては英米協調、中国と融和するといった国際観を持たせることになった。しかし世界的な大恐慌、国内では昭和恐慌という未曾有の事態の後に蔵相となった高橋の眼前には、経済の急激な悪化とともに、一方で高橋を含む政党政治家に対する諦念や恐慌の痛手の中から国民に支持された軍部という組織が立ちはだかることになる。度重なるテロルと粛清の中で孤立無援というハンディを背負い、高橋が拡張的な経済政策を行うことになった。確かに経済政策自体は成功を収めたといえるだろう。しかし、高橋が凶弾に倒れると社会のうねりは急転していき、我が国はどん底への道を突き進んでいくのである。
こういった歴史の道程を一望する時、自分がまず感じるのは現代との奇妙な一致、もしくは既視感といった感覚である。大戦景気といったバブルが崩壊した後の1920年代における金融危機を伴う長期停滞は、90年代における長期停滞と重なる。この停滞は後半期にマイルドなデフレを伴いつつ進行したという意味でも共通だろう。そして、デフレを伴う長期停滞は、社会の弱者層に影響を与えつつ、格差を内包する形で深刻化していく。現代と昭和期には多少のラグはあるものの、こうした10年の停滞の後に世界経済が変容していき、再度我が国は不況に陥ることになる。
勿論、以上はアナロジーであって同じ事実が繰り返されるのではない。歴史上の事実と現在とは異なるという戒めは押さえておくべきだ。しかしそうであったとしても共通点を感じずにはいられない。昭和恐慌から我が国はいち早く立ち直ることができたのに対し、現代の我が国の回復は緩慢で、マイルドなデフレと総需要の停滞を克服できずにいる。しかし、やはり底流といった点、政治への国民の抜きがたい不信といった感覚は共通のものではないか。厄介なことに現代では「一時の便法」であっても兎に角経済を回復させるという認識を共有し、実行するという気概と行動力に政府は欠け、知識人の多くは寧ろ停滞を好み、政府の失敗を糊塗することに躍起になっているようにもうつる。
現代においては軍部といった具体的な形で政治の空白の間隙を縫って登場する主体は存在していないと思われるが、我が国が戦後の経済成長の結果として積み上げてきた様々な遺産が今後磨耗していくことを考えると何が生じるのかは不透明である。我々の眼前に生起しているのは、総需要の停滞とデフレ、長期に渡る総需要の低迷の結果としての成長力の停滞という状況であり、これが様々な局面の矛盾や問題の表出といった形で緩やかかつ確実に社会構造に浸透しているという状況ではなかろうか。
高橋の経済政策においても明らかな通り、拡張的な財政・金融政策が20年にわたる長期停滞で生み出されたものをたちどころに全て克服することは困難だろう。しかしだからといって、高橋の経済政策という「成功例」を無碍に溝に捨てる程、我々は賢くなったのか。
10年前の経済論争と現代の論争は繰り返しという見方がある。更に言えば、デフレをめぐる経済論争は昭和恐慌における経済論争と大差はない。10年の時のみならず近代すら超克できていないのではないか。
後世の一凡人たる我々は、ともすれば過去の成功例の欠点をあげつらい、現代と過去とは異なるという極めて分かりやすい了解を慰めとして共有してはいないか。私は後世の一凡人が過去の偉人に勝てる唯一の強みがあると思う。それは歴史のその後を知っているという強みだ。成功が失敗への端緒となったのであれば、むしろそのことを糧として、先に進むことが可能なのも後世の一凡人の利点であり、責務でもある。いささか話が脱線気味であるが、このようなことを感じた次第だ。
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