さて松岡氏の論考は、表題にも掲げた通り、量的金融緩和無効論に対する批判的検討である。この論考のベースは、浜田・原田編『長期不況の理論と実証 日本経済の停滞と金融政策』第二章所収の同氏の論文(日銀理論とは何か:名目短期金利ゼロの下限と金融政策)(同種の論文はESRI DP No.29としても読める)と思われるが、量的金融緩和策無効論についての批判的な検討がなされている。
松岡氏による、量的金融緩和無効論の主張を取り上げてみよう。論説では7つ全ての無効論が否定されている。つまり、量的緩和策は有効であったということだ。
1.量的緩和は金融システム不安に対して有効だが、景気刺激策としては無力である。
2.金融政策スタンスは名目短期金利の絶対水準により判断され、金融政策はマネーではなく金利を通じて実
体経済に波及する。(名目短期金利至上主義)
3.金融政策は主に短期金融市場を通じて波及する。(短期金融市場至上主義)
4.名目短期金利がゼロに達したら追加的な金融緩和はできない。
5.資金需要が無いので、量的緩和をしても景気を刺激できない(超過準備ブタ積み論)。
6.中央銀行による国債引き受けは、インフレにつながる。
7.インフレは加速し始めると手に負えない。
1.量的緩和は景気刺激策としては無力だったのか?
松岡氏は簡単な実証分析(5変数VARに基づく、日銀当座預金増が実体経済に与える影響)を行った上で、量的緩和策が実体経済(CI一致指数、消費総合指数)に影響を及ぼすのは最低でも9ヶ月以上の期間がかかり、その影響は24ヶ月が過ぎても持続していることを示している。金融政策の効果ラグは1年から1年半なので、金融政策に即時的な効果を求めるのは難しい。そして推計結果からは無力ではないということがわかる。
さて、量的緩和政策についての実証分析として代表的なもの(Kimura他(2002)、Kimura and Small(2004)、Fujiwara(2006)、Oda and Ueda(2007))を敷衍すると、量的緩和策の効果として有効な径路は、時間軸効果に関するものであり、ポートフォリオリバランス効果は無く、かつ金利がゼロの場合にマネーを増加させても実体経済には殆ど効果がなかったとされている。
しかし、これらの研究は量的緩和政策の実施期間を完全に織り込んだものではない(例えばKimura他(2002)では、85年Q3~02年Q1、Fujiwara(2006)は85年1月~2003年12月)。更にOda and Ueda(2007)及びKimura and Small(2004)は実体経済の影響を調べていない。そして、量的緩和政策では政策手段として日銀当座預金残高が採用されているが、このことは量的緩和政策前後で構造変化が生じたことを示唆する。確かに構造変化をマルコフスィッチング等の手法により織り込むこともあり得るが、量的緩和の期間自体を標本期間とするのが適当だろう。
量的緩和の期間のみを含んだ実証分析としては、Honda他(2007)、原田・増島(2009)、本多他(2010)が挙げられるが、これらの研究で確認されているのは、日銀当座預金残高(マネタリーベース)の増加は実体経済を拡大させ、その際の効果としては時間軸効果は検出されず、ポートフォリオリバランス効果により資産価格の上昇が実体経済を好転させたという事実である。尚、デフレ期待に関する歯止め効果があったこと(竹田・慶田(2009))や、銀行間のコール・レートのスプレッドをほぼ完全に解消させ、株価の上昇を引き起こしたこと(福田(2009))も報告されている。松岡氏の所論は、以上の点を鑑みても正しいと考えられる。
2.名目金利至上主義は正しいのか?
論点の2.から4.についてだが、これはいくらマネーを供給しても資金需要が無いために、景気は刺激できないという考え方に繋がる。つまり、中央銀行は自らが適切と考える名目短期金利の水準で金融市場が需要する準備預金を受動的に供給するに過ぎない、というものである。ただし、そうであるならば、中央銀行は景気後退に対して無力であり、そして景気の過熱に対しても無力であろう。
さらに名目金利至上主義は、金融政策の波及径路を狭く限定しているのではないかと考えられる。金融政策の波及径路は、為替レートや他の資産価格、実物資産と金融資産の代替といった径路でも波及する。これらの点は1.の実証研究や02年以降の実体経済の回復局面の事例からも明らかだ。
3.超過準備ブタ積み論は正しいのか?
論点の5.は超過準備ブタ積み論である。日銀当座預金を増額しても銀行は貸出を増やさないので、実体経済に好影響はでないというものだ。松岡氏は、超過準備が1兆と1000兆の場合で全く違いが無い、という筈が無いと論じるが、そのとおりだ。つまり、超過準備を拡大する過程で中央銀行は家計、企業、政府の負債を購入するが、これらの主体の負債を購入することでファイナンスを得ることができた主体は存在するだろう。ファイナンスができた主体が消費・投資・・といった経済活動を行うのは必定である。
更にブタ積み論が見落としているのは、金融政策は現金との代替性が不完全な資産(証券)と現金という二つの金融資産の交換を通じて波及するということだ。名目短期金利はこれらの交換の結果定まるものである。つまり、現金と代替性が低い資産を中央銀行が大量に購入することで景気刺激効果は実現するのである。
この点は、片岡(2009)及び片岡(2010)でも論じられているが、日銀や欧米中央銀行が行った量的緩和策の経験を踏まえれば(現在では)簡単に確認できる。日銀の場合、01年~06年の量的緩和政策の期間に日銀当座預金残高は30兆円(GDP比1.2ポイントベース)の量的緩和であり、購入対象資産は長期国債が殆どであった。長期国債は現金との代替性がほぼ完全な短期国債よりも現金との代替性は低いものの、外貨建て外国証券よりも代替性は高く、更に社債や株式、ETFといった資産よりも更に代替性は高いだろう。欧米中央銀行は、リーマン・ショック前後以降に総資産を名目GDP比8~13ポイントベースで拡大した。つまり、日銀の量的緩和策と比較して4~6倍のペースで緩和を行った。更に、長期国債のみならず、現金との代替性がさらに低い資産も積極的に購入した。これらが、日本の量的緩和策と比較して資産価格の早期反転や実体経済への影響が早期に生じた理由である。
そしてブタ積み論が見落としている点は、超過準備の多寡が、民間資金需要の程度を示したものではないということだ。日銀当座預金の残高が中央銀行の政策変数であるのならば、当座預金の残高は民間資金需要の増減に対して固定される。例えば民間資金需要が増加して、民間銀行が日銀の当座預金を取り崩して資金供給を行った場合には、当座預金残高(つまり超過準備)は減少する。しかし、当座預金残高が一定の金額に固定するような政策運営を日銀が行っている場合には、日銀は同額の買いオペを実施するために当座預金残高は維持されるのである。
4.構造的デフレ論に対して
わが国のインフレ率が上がらないのは、技術進歩や国際競争の激化が影響しているとの議論もある。しかしこれらは他の先進国でも同様に観察される事例であって、日本だけがなぜデフレになるのかを説明できない。更に、先進国では一人当たり名目賃金は90年代以降継続して年率3~5%で上昇しているが、日本はなぜ上昇していないのかを説明することができない。更に国際競争の激化で賃金が抑制されるのならば、製造業の賃金が相対的に減少する筈だが、日本を含む多くの先進国で観察されるのは逆の現象(非製造業の賃金の下落が進む)であることも説明できない。わが国の最大の問題点は、デフレ(つまり名目変数が殆ど伸びていないこと)であり、これには金融政策の失敗が決定的な影響を及ぼしている。
5.財政赤字はインフレに繋がるか?
財政赤字がインフレに繋がるという議論は、わが国において財政赤字が経済政策の失敗と景気停滞の結果であること、更にわが国の資金循環表から、民間部門の貯蓄投資差額が財政収支変動を相殺するように動く傾向を考慮していない。インフレは景気の過熱により生じ、それは同時に税収の回復、つまり財政赤字の解消を伴う。財政赤字がインフレに繋がるという因果性は疑わしいし、中央銀行が国債引き受けによりマネーを供給することでインフレになるのであれば、以上の径路を伴う筈であるため、その際には財政赤字は改善に向かっているだろう。
6.インフレはコントロール出来るのか?
最後の7.についてだが、インフレが加速するとコントロールできないという話はありえない。過去の金融政策の事例を見る限り、インフレ期待をコントロールすることは可能である。量的緩和策によりインフレが生じるのであれば、それは、景気拡大を伴なっており、実体経済の改善を伴うだろう。
7.感想
松岡氏の論考を簡単に纏めたが、極めて明快な論説である。ご興味のある方は先の浜田・原田編著に掲載されている論文や、ESRI DPもあわせて読むと良いと思う。量的緩和政策の実証研究については、別途纏めつつ、国際的な比較結果を考慮した実証研究についても(可能であれば)紹介したいところである。
さて、松岡氏の論考の末尾にも書かれているが、日銀は政策金利0.1%の下で貸出しを行う新型オペを実施し、更に3月の政策決定会合ではこの金額を拡充することを発表した。しかし私(松岡氏もそうだが)にいわせれば、これは「だまし」の緩和に過ぎない。つまり、日銀は貸出しの拡充分だけ売りオペを増加させることで新型オペの資金供給を相殺しており、当座預金残高の増加は殆ど生じていないためだ。政策金利0.1%という制約がある限り、国債買切りオペの増額といった政策も無意味だろう。つまり、当座預金残高の増加を伴うという状況を維持しつつ、明確なコミットメントを伴なう金融政策が今必要なのである。
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