以下、『デフレ経済と金融政策』の序から各論文の概要と、吉川氏の議論、自分の感想をメモ書きしてみることにしよう。個別の論文については、同タイトルの(その2)・(その3)という形で順次関連文献にふれながらまとめる予定(どこまでできるか分からないが)である。
1.誤った「理論」を論じているのは誰か?
まず、序の議論をはじめるにあたって、ケインズの有名な議論-『経済学の理論や哲学は、普通考えられているよりも実は大きな影響を現実の社会に与える。「理論」が政策当局、政治家、アジテーターに与える影響は、「既得権益」などよりも遥かに大きい。だから「理論」は危険なものであるのだ』が引用される。
吉川氏が「理論」として論難する相手は誰なのか。それは、端的に言えば米国主流派の経済学者、そしてFRBの「理論」である。
米国主流派の経済学者やFRB当局は、「失われた10年」における日本の金融政策を「too little, too late」であるとし、「正しい政策対応」は分かっていると論じた。「失われた10年」とは無縁であった欧米では安定した物価と経済成長が達成されており、バーナンキ現議長は「現代のマクロ経済政策は景気循環の問題を解決した」と述べていた。しかし、今回の米国発の金融危機は彼らが言う「正しい政策対応」が本当に正しかったのか?という疑問を提起させる。
この「正しい政策対応」の根幹にあるのは、テイラールールに代表されるような一定のルールを参照しつつ、金利を上下させるというルールベースの金融政策によって、物価安定と長期の経済成長が達成される、という世界の中央銀行のコンセンサスにあると吉川氏は言う。
2.FED ViewとBIS View
そこで、本論の内容に入る。つまり、世界同時金融危機と呼べる現象を生じさせた背景として、定説となったと思われたFED Viewが果たして正しかったのかという点である。第一章及び第二章の話題は、このFED Viewと対立する考え方であるBIS Viewとの違いと対立の様相についてである。第一章の翁論文は、この二つの見方の違いと対立を整理し、第二章の翁・村田論文は、世界的なディスインフレーションに関する解釈においても二つの見方には違いがあることを指摘している。更に11章の地主論文では、ITバブル崩壊後のFRBの金融政策をナラティブアプローチに基づいて分析し、資産価格の動向には、雇用やデフレほどFRBが注意を払っていなかったと指摘している。
吉川氏による二つの見方の評価は、FED Viewは乱暴であり、異端的な見方と目されたBIS Viewの視点、特に「バブルの崩壊とともに深刻な、すなわち金利を下げるだけでは簡単にはclean upすることができない不況・デフレに陥るリスクがある。」という視点こそ重要だという。吉川氏によれば、バブルは崩壊してから対応すれば良いという問題ではなく、それこそが政策により回避されるべき重大な問題である、ということになる。
個人的な感想を述べれば、FED Viewが言うところの「バブルは崩壊してから対処すればよい」という論点は、以下の理由にあると考えられる。
1つ目は、バブルが生じている時点ではバブルとは認識できないことである。特に安定した経済成長が観察されれば、その際には資産価格も上昇する。ファンダメンタルズに対応した資産価格とそうでない部分をリアルタイムで区分するのは難しい。2つ目は、バブルだと認識できたとして利上げを行おうとする際に、その判断をどのようにして市中に浸透させるのか、それは困難ではないかということである。3つ目は、利上げという中央銀行のバブルに対する判断が経済主体の行動を変化させ、中央銀行の政策判断の根拠でもあった経済状況を変えてしまうという点である。以上から判断すれば、FED Viewにおける「バブルはそれが生じている段階でバブルだとは認識できない」という論点は正しく、乱暴という議論は金融危機という現在の状況に少し依存しすぎなのではないかと思う。ただし、バブルが崩壊してからではわからないからといって、バブル崩壊後の経済への影響が軽微であると楽観視し、バブル崩壊に伴う政策対応を金融政策のみに頼ることもいささかミスリードである。特に流動性の罠に経済が陥った際の政策対応は、信用緩和策を行っている米国や英国、ECBといった中央銀行にとっては課題だろう。その意味で第3章の白川論文は参考となる。
3.「流動性の罠」下の金融政策
第3章の白川論文に続き、議論されているのが第4章の吉川論文である。ここでは有名なクルーグマンのIts baaack論文が検討される。吉川氏によれば、クルーグマン論文のポイントは、消費者の効用最大化に基づく「しっかりとした」モデルにより「インフレターゲットと量的緩和」という政策提言に理論的基礎を与えたと多くの経済学者・エコノミストが考えたことにあるとのことである。吉川氏によるクルーグマン論文の問題点は、名目金利がゼロであるとする異常な経済状況を対象としているが、一方で実質金利がインフレにより下がることで経済の調整メカニズムが働くのであれば問題はないという「正常」な経済を仮定しているとのことである。この視点からは、我が国の金融危機に象徴されるような不良債権問題といった要素がクルーグマン論文のモデルでは対象とされていない。そして、ルールの代表格でもあるテイラールールには不良債権の特別席はなく、GDPギャップという要素に実体経済の要素は押し込められてしまっていると指摘する。
さて感想だが、吉川氏の議論に従えば資産価格といった要素をルールにどう取り込むかという点は今後の課題ではないかと思う。ただし一方で12章の岡田・浜田論文でも挙げられているとおり、流動性の罠を、ある定常過程からある定常過程への移行過程において発生する論理的な「短期」として区分される現象と捉えるのであれば、流動性の罠の本質はニュース・ドライブンな動学的現象であるともいえるだろう。つまり将来の外生変数の低下が現時点で予想されることで、将来の期待を折り込んだものに現在の均衡が調整されうるということである。この意味では、クルーグマン論文は流動性の罠の本質を捉えているといえるのである。
4.貨幣数量説としてのデフレの解釈
さて、吉川氏のまとめは、貨幣数量説的なデフレの解釈に話が移る。貨幣数量方程式に従えば、マネーサプライの変化と物価との間は関係がある。しかし一方でゼロ金利政策、量的緩和政策といった非伝統的な政策を行ったにも関わらず、デフレは続いたのも事実である。第5章の宮尾論文はECMに基づいて貨幣数量方程式の検証を行っている。長期的な均衡関係ということでは、マネー(M1)と物価との間には安定的な関係が成立しているが、短期的なダイナミクスという意味では、マネーが物価変動に対して影響するという関係が2000年代に入って消滅しているという議論がなされている。
感想だが、このように見ていくと、2000年代に入ってマネーと物価変動との間の関係が消滅するという事実は、「マネーを刷ればインフレになる」という単純な貨幣数量説的な認識を否定しているようにもとれる。
だが、注意すべきは同時点間のマネーと物価変動との間に関係がないという事実は、マネーと物価との間に関係がないということではなく、流動性の罠に陥った状況を実証分析で確認したもの、ではないかという点である。それでは、量的緩和策がどのような経路を辿ってどのような形で効果をもたらしただろうか。
5.量的緩和策
量的緩和策についてはいくつか論点がある。まず、第6章の竹田・慶田論文である。こちらは消費動向調査の個票データから負債デフレ論とデフレ心理についての分析がなされている。計測の結果、98年以降は過大なデフレ期待が検出され、デフレ期待に歯止めをかけたのが資産価格についての期待の好転、そして量的緩和策であるとの結果が記載されている。
量的緩和政策が金融システムにどのような影響をもたらしたのか。この点は第7章の福田論文で議論されている。福田論文では、銀行間市場のコール・レートに着目し、日次ベースでコール・レートのスプレッド(日中最高値と最低値の差)を分析している。量的緩和政策は、コール・レートのスプレッドを大幅に縮小させほぼ完全に解消させた。一方、コール・レートのスプレッド縮小は株価の上昇を引き起こすという分析結果も得られている。
第8章の原田・増島論文は、VARモデルに基づいて量的緩和政策の波及経路として、従来指摘されていた「時間軸効果」、中・長期金利低下による効果ではなく、資産価格の上昇を通じた実体経済の改善という経路を辿ったことを実証している。これらの結果は、第6章、第7章の研究と整合的だろう。
感想だが、つまり、これらの研究成果から浮かび上がる量的緩和政策の効果(波及経路)とは、過大なデフレ期待に歯止めをかけて資産価格について期待を好転させ、実体経済を改善させたという経路と、金融危機における金融システムの崩壊を食い止めたという経路の二つが挙げられる。「時間軸効果」といった意味での日銀のコミットメントが効果をもたらしたという話ではないことに注意すべきだろう。
さて個人的に気になるのは、資産価格と金融システム、更に実体経済との関係が我が国の長期停滞からの脱却過程でどのように作用したのかという点である。12章の岡田・浜田論文でも指摘されているが、深刻な金融危機からの脱却過程では、株価の上昇から実体経済の好転が生じ、金融システムの安定や貸し出し・借入れの増加といった側面は実体経済の好転からやや遅れて生じている。銀行貸し出しの増加は05年以降に生じていること、更に資金循環表からは企業部門の債務処理が終了して、借入れが生じているのは06年以降という点を踏まえると、吉川氏が言う金融システムの安定・不良債権というポイントよりも、資産価格への影響こそ重視すべきということになるのではと思う。
6.物価と資産価格
5節でみたように、量的緩和策の経路という意味では資産価格の変化というものが大きな影響をもたらしているが、金融政策で目標とするのは資産価格ではなく物価である。更に、量的緩和策により物価はゼロ近傍からわずかに上昇したが、量的緩和解除により再度物価は低下している。
物価と資産価格との関係はどのように考えれば良いのだろうか。第9章の渡辺論文は、資産価格と財・サービス価格との関連を調べている。結果は、米国と比較して我が国の財・サービス価格は3倍の粘着性を持っているというものである。仮に米国並みの伸縮性を有していたのであれば、バブル期の消費者物価指数は実績よりも1%高く、バブル崩壊期には実績よりも1%低くなるとのことだ。
消費者物価指数を構成する財の価格変動の特徴に関しては、第10章の梅田論文が検証している。結果によれば、米英と比較して我が国の方がデジタル家電の価格変化がCPIに及ぼす影響は大きい。90年代のデフレ時においては、サービス価格のゼロインフレがCPIに影響している。欧米諸国はサービス価格が持続的上昇を続けているが、サービス産業における米英と日本の名目賃金格差が価格差に影響しているとのことである。
感想だが、吉川氏は資産価格の粘着性についてバブル期における局面を重視した議論をされている。一方でバブル崩壊期におけるCPIと資産価格の関係も考える必要があるだろう。バブル崩壊期においてCPIに対して資産価格の粘着性が高いということは、CPIの水準が過大に見積もられていることを意味する。そうすると、実際の政策対応はより緩和的になされなければならなかったのではということになる。
7.長期停滞と金融政策
さて、金融政策と長期停滞とのかかわりはどう見ることが出来るのだろうか。周知の通り、長期停滞の原因については様々な論争が繰り広げられた。バブル崩壊から20年が経とうとしているが、この点についてコンセンサスが得られたとは言いがたい。岡田・浜田論文では、金融政策が長期停滞に大きな影響を及ぼしたと論じる。
自分なりにこの論文のポイントを整理すると、概念上短期的ショックと位置づけられるマネタリーなショックが現実的な時間の流れにおける「長期」に渡り影響していたというのが一つ目のポイントである。多くの論者が指摘する長期停滞の原因とは、実物的な要因に基づくものである。標準的な解釈に従う限りこれは正しい。
しかし長期停滞の中身はというと、成長率の低下は数回の景気循環を経つつ生じていることも事実であり、91年から97年の資産価格の下落と実体経済の悪化が生じた局面、金融危機が生じた98年から2001年までの時期、2002年以降の回復局面において、実物的要因は長期停滞の最中において異なる動きを示している。一方で、貨幣的要因(物価)はディスインフレからデフレの持続という形で停滞が続く。更に為替レートの動きからも円の名目価値の上昇・もしくはその傾向の持続が観察される。つまり、本来は短期とされる貨幣的な現象が長期に渡り持続していたのである。
この貨幣的な現象の持続は、物価の下方硬直性の存在を示唆する。更に貨幣数量説的な解釈にも異論を提示するものである。長期停滞下においては、金融政策から景気変動という因果関係よりも、実体経済の変動に対して銀行貸し出しやマネーが変化し、受動的な金融政策の結果としてマネタリーベースが変化するという経路が働いていたのではということだ。この点は所謂日銀理論の存在からも納得しやすいだろう。「マネーを刷ればインフレになる」という事実は、長期停滞下の日本経済の状況を眺めれば否ともいえる。
だが、注意すべきは、貨幣数量説的な解釈が正しくは無いからといって、マネーから物価への経路が否定されているわけではないということである。つまり流動性の罠という形で、貨幣量と物価もしくは景気との間に同時点的な関係が保たれないという状況が生じていれば、流動性の罠から脱却すればマネーと物価の関係は修復されるということになる。
岡田・浜田論文では為替レートの存在が重視されているが、それは長期停滞の原因を国内的要因のみで捉えようとすると、我が国の停滞を実物的要因か貨幣的要因かを決着づけることが困難であるためだ。この点が二つ目のポイントだろう。
先程上で書いたニュース・ドライブンな動学的現象という枠組みは、実物的な意味での長期停滞の解釈としても有効である。つまり、生産性の将来の低下が予想されたとすると、それは将来所得の割引現在価値である富や恒常所得の低下を認識させるため、現在供給能力が低下していないにも関わらず現在の総需要は低下することになる。貨幣と物価をこのような枠組みに追加すれば、実物的要因に基づくデフレと長期停滞という現象を説明できてしまう。
そこで出てくるのが、実質為替レートに関する議論だ。この点は非常に勉強になった。ここで重要な点は、実質為替レートと交易条件が同じではないということと、景気循環との関係において実質為替レートの調整が不備であったという指摘だろう。
咀嚼すべき点は多いのだが、実質為替レートは資産価格である為替レートと、粘着的にしか変化しない物価の組み合わせである。実質為替レートの調整不全(為替レートと物価とのアンバランス)は、経済活動に対する重要かつ本質的な原因となりえるというのが、岡田・浜田論文の結論である。この点は、経済の激変期におけるストックの重要性、つまり資産市場の調整はバブル崩壊という形で急激に進む一方で、ストックの動きに伴う形で生じるフローの調整は緩慢であり、それが長期停滞をもたらしうるという視点である。サブプライム危機から世界金融危機、そして世界的な実体経済の悪化という局面を見ても、資産バブルの崩壊によって米国の過剰とも言える消費は停滞が進んでいるが、その調整は価格の粘着性により緩やかに進んでいる。以上の事実はストックの急速な調整に対してフローの調整は緩慢に進むという状況を反映しているのである。
8.再びFED ViewとBIS Viewを巡って
段々とまとめでなくなってしまったような気もするが、以上の論文の概要を説明した上で、吉川氏の議論は、日本の経験が金融政策に対してどのような教訓をもたらしたのかという点に移っていく。結論を述べれば、世界金融危機が生じたことは、我が国の経験が生かされなかったことを意味するというのが、氏の議論である。
氏が指摘するのは、「マクロ経済にとり最大の脅威でもあるバブルはあらゆる努力を払って回避しなければならない」というものである。そしてBIS Viewと同じ考えをもっていた経済学者-シュンペーター、ハイエク、等々の考え方が紹介される。つまり、バブルは金利政策の効果とは定量的に比較にならないほどの大きな影響をマクロ経済に与える、というものだ。この指摘からはバブルを予見して金融政策を行うことの必要性が氏から主張されるのは当然ともいえるだろう。更に、期待は安定しないという指摘も興味深いところだ。
感想だが、確かにバブルは実体経済に悪影響を与えるし、バブルを避けることが出来るのであればそれに越したことはない。しかしやはりバブルを未然に政策担当者が判断し、それを避けるような政策を行うことが可能なのかという点は疑問である。
バブルを予見できるということは「暴れ馬」と吉川氏が指摘する公衆の期待が把握できるという事につながらないか。又、バブルを予見し、金利を引き締めるということは公衆の期待を変え、ファンダメンタルズについての政策当局の理解にラグを生じさせ、政策の歪みをもたらすのではないか。資産市場における期待を安定化させることはできないという認識はFED Viewにおいても共通だろう。だからこそ、バブルは把握できず、これまで世界中で数々のバブルが崩壊するという事態を我々は経験してきたのではなかろうか。
注意すべき点は、資産価格の「期待」はコントロールできないが、物価に関する「期待」に働きかけることが可能かという点である。この点は今回の金融政策の帰結を見極めなければ、教訓という点では判断がつかないだろう。更に「期待」についての精緻な研究が今後も必要なのだろう。
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