2010年6月10日木曜日

細川護煕(著)・伊集院敦(構成)『内訟録 細川護煕総理大臣日記』を読む

2009年8月の歴史的とも言える民主党の衆院選勝利から早10ヶ月。鳩山政権は『新しい優先順位に基づいて、すべての予算を組み替え、子育て・教育、年金・医療、地域主権、雇用・経済に、税金を集中的に使います』と謳ったマニフェストを携えて臨んだものの、国民の期待に沿うことはかなわずに鳩山・小沢両氏の退陣という形で崩壊した。

非自民政権という意味では、2009年8月の経験が最初ではないことは周知のとおりだ。一つ前の非自民政権は、16年前の夏、1993年8月に成立した。現政権の主要なプレイヤーである鳩山氏や小沢氏も政権の中枢で活躍した、細川政権である。

  突然の「小鳩退陣」から1週間と経っていない訳だが、細川政権の成立と挫折の記録から果たして鳩山氏や小沢氏は何を学んだのだろうか。何も学んでいなかったのか。政権の類似点は何か、そして相違点は何なのか。

   そんなことを考えている折に、本書は刊行された。本書は、1993年8月9日から1994年4月28日まで総理大臣の地位に在った細川護煕氏による日記に、当時様々な形で政権を支えた人々の回想や伊集院氏による当時の状況説明を交えた回顧録である。
 
   なぜこの時期に公刊となったのか。恐らくは細川氏自らが一翼を担った政界再編の現時点の到達点である、民主党による政権成立に際して自らの経験と反省を伝えたかったに相違ない。もしかすると、先に書いた小沢氏と鳩山氏の動静に忸怩たる思いがあったのかもしれない。

   細川氏の思いが奈辺にあるかは別にしても、この時期に本書が公刊されたことは自分にとっては非常に有益だった。本書の大部分は日付(と天気)、その日に関連した人との邂逅、そして何を行ったかが簡潔に記載された記録であり、それ自体は無味乾燥な代物である。しかし読み進めるうちに、無味乾燥な毎日の記録が重層的に幾重にも連なりつつ政治が進むという当然の事実に気づく。そして、随所に挿入された状況説明が、圧倒的な情報量に翻弄される読者の「碇」として作用し、大まかな流れを感得させる助けにもなった。

   たった8ヶ月余りの時間だが、毎日の日記から把握できる情報量は圧倒的だ。それは、民主党政権とは異なる8党派の寄せ集めという連立政権が、当時の課題であった政治改革法案、ウルグアイ・ラウンド、円高の進行と実体経済、日米通商問題、国民福祉税構想の頓挫といった税制改革、といった難題に果敢に挑んだという事実と「寄せ集め世帯」から連想されるキーパーソン間の人間模様、そして細川氏を支える人々の思いといった事実に依る。

   8ヶ月という期間を考慮すれば、年内成立という公約は果たせなかったものの、抵抗勢力・国会での執拗な駆け引きにもめげず政治改革法案を成立させたことや、ウルグアイ・ラウンドに伴うコメ自由化を決着させたことは細川政権の誇るべき成果だ。二つの政策の成立にあたっては、原理原則に拘り執拗に抵抗した社会党という記述も普天間問題における社民党の抵抗と重なり興味深い。だが当時の社会党が離脱という形を取らずに思いとどまったのは、政治改革の断行という8党派を支えた共通の理念があったからなのだろう。翻って鳩山政権における国民新党、社民党の姿はどうか。連立を支える共通の理念、直面する政策課題への認識は同じものと言えたのか。連立離脱という事実からすればそうとは言えまい。

   だが、年が開けて1994年1月に政治改革法案が成ったあたりから、政権を支える武村官房長官(当時)と連立のキーパーソンであった小沢氏との対立が深刻化していく。そして痛恨事となった94年2月の国民福祉税をめぐるゴタゴタである。国民福祉税については細川氏が述べるように、政治改革法案やウルグアイ・ラウンド対策といった重要課題の中で、検討・進行を党や大蔵省事務次官(当時)の斎藤次郎氏に委ねた事、税制というナイーブな課題の最終決定を首相一任という手続きのみで進めようとし、十分に議論を尽くさなかった拙速さといった反省点も増税議論が隆盛を極める昨今では注目に値するだろう。

   関連して、鳩山政権が「政治家主導」の名の下で財務省を有効利用する事ができず、更に菅新総理の増税発言が財務省の影響の一端である事を念頭におけば、国民福祉税の伏線として大蔵省が主張した「増減税ワンセット論」(所得税の特別減税と消費税増税の一体的実施)や政策スケジュールの明示への不快感を細川氏が綴っている点も興味深い。結局のところ日米首脳会談を94年2月に控えた局面で、93年8月から94年1月まで政治改革法案やウルグアイ・ラウンドにかかりきりとなってしまい、必要な経済対策及び税制に関する議論が十分でなかった事が影響した。

   事務方としての官僚の役割という意味では、ウルグアイ・ラウンド交渉における外務・農水省の細川氏のサポートが有効に働いた一方で、税制では大蔵省、対外関係では通産省による影響が、税制・日米通商問題において細川政権に不利に働いたという側面は見逃せない。税制については先に見た通りだが、通商問題においては、通産省主体の交渉が当時の日本に対する過大な要求に繋がる一因になったのではないか。勿論、当時の米国側の国内事情も重視すべき側面だが、本書の中で指摘されているように過大な円高が東アジア諸国の円借款の過大負担に繋がる側面もあり、他にも交渉の余地はあったのではないかと思うのである。

   こう書くことで官僚の非を責めるのではない。寧ろ当時手薄であった経済問題や対外交渉こそ、各国務大臣が首相をサポートしつつ事務方を使いこなすことが出来なかったのかということを言いたいのである。ちなみに当時の大蔵大臣は鳩山政権の財務大臣でもあった藤井氏。鳩山政権と財務省の関係や円高の進行といった共通点を見るにつけ、失敗が認識されていたのかという疑問が浮かぶのである。

   8党派による奇跡的な連立の結末は、一つの共通目標の終焉とともに、内部抗争という形で瓦解していく。それは細川政権当初からの懸念材料であった武村氏の認識と小沢氏の認識にズレがあったことが発端である。自民党と気脈を通じていた武村氏の軽率な行動は、自民党から離反した小沢氏との確執を生む。首相を補佐する官房長官が首相の足を引っ張るという構図が政権の寿命を縮める一因になるという状況は、鳩山政権における平野官房長官の迷走ぶりと重なる。そして本書の記述から度々漏れ聞こえる「一点突破」は剛腕小沢を連想させる。内閣改造がさきがけ・社会党の反発により頓挫する中で、自民党のYKK、渡辺美智雄氏との連立の可能性といった点も、現在の民主党政権のその後を垣間見させるようで興味深い。

   先に書いたとおり、細川政権以降、非自民連立の動きは紆余曲折を経て民主党の成立へと結実していく。更に、官邸機能の強化は橋本政権で形が整えられ、小泉政権でその真価が発揮されるのは周知の通りだ。現政権に何らかの形で携わった人々の中では未だに現役である人間も居るし、そうでない人間も居る。小鳩政権が「二重構造」に堕してしまったのは、当時別組織に属していた二人が同じ党に属した事によるものか、違う要因に基づくのか、等々興味は尽きない。

   時を超えて細川政権を経験した人々が中枢に座った鳩山政権がなぜ挫折したのか、そんなことが読後の余韻として残った次第である。本書の巻末で記載されている細川氏へのインタビューの最後の箇所、「リーダーは『何がやれるか』ではなく『何をやるか』を考えなければ駄目だ。」という言葉は、民主党のマニフェストとして引用した「新しい優先順位に基づいて、すべての予算を組み替え、子育て・教育、年金・医療、地域主権、雇用・経済に、税金を集中的に使います」という言葉と重なると感じるのは自分だけだろうか。そして、細川氏が語る「(『何をやるか』に加えて)必要なのは人材集めであり、登用する人材は専門家である必要は全くない。やることは断固としてやるという私心のある人が5,6人いたら、大抵のことができる。・・・中略・・・国中を探せば逸材がどこかに必ずいると思いますよ」という言葉こそ、政策の当否はさて置いて、民主党政権に期待されていることなのではないかと思うのである。

  おそらく本書の読後感は読み手にとって様々だろう。ただ本書のような500頁を超える本を読了した重みは又格別であったことを銘記せずにおれない事だけは述べておきたい。

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