不均衡分析の荒野に足を踏み入れると、勢い「合理的期待」と「均衡概念」との関係が気になってくる。毎回寄り道で恐縮だが、今回は伊藤隆敏『不均衡の経済分析』(東洋経済)の補論(いわゆる「合理的期待学派」について)にヒントを得ながら整理してみる。
主に整理する点は、以下の点である。つまり、「合理的期待学派」の主要な結論(政策の無効性や不必要性)は、寧ろ「均衡」の仮定の必然的帰結であり、「合理的期待学派」という呼名はミスリードで、「均衡学派」もしくは「新しい古典派マクロ経済学派」と呼ぶべきであること、ということだ。あわせて均衡と不均衡の含意についても少しふれてみよう。
1.「合理的期待」について
古典的なサージェント=ウォレスの論文では、合理的期待と自然失業率仮説を組み合わせたモデルに基づいて、経済政策が実物経済には影響を与えないというショッキングな結論が導かれている。この含意は、ケインズ派のモデルによる政策の有効性が、民間の期待形成の遅れ(ラグ)にのみ依存しているが、このような状況では、政策が民間の期待を裏切らない限りは有効ではないということを意味する。
以上の点は、サージェント自身の発言からもわかる。つまり「合理的期待理論がすべての政策が無力だと主張しているというのは正しくない。正しいのは、政策が影響を与えるメカニズムが期待の誤りしか存在しないようなモデルでは、論理的帰結として、いつも人々の期待を欺かないかぎり、政策はシステマティックな効力を発揮しないということである」ということだ。
では、ケインズ派のモデルの含意である不均衡の存在が「期待形成の遅れ」以外の理由で生じるとしたらどうだろうか。ニューケインジアンモデルは合理的期待の枠組みに基づきながら、政策の有効性を説明している。まさに「合理的期待」と「政策の有効性」とは無縁の概念なのである。
そうすると、「合理的期待学派」とは何者かという疑問が生じるのももっともな所だろう。サージェント=ウォレスにおける合理的期待を含んだフィリップス曲線の議論では、現実の失業率の自然失業率からの乖離は、時間の経過に伴って縮小していくと想定されている。だが、自然失業率と失業率の乖離が持続すると仮定した場合には、合理的期待を含んだフィリップス曲線の議論は成立せず、ひいては景気循環を説明できないことになる。
よって、これらの批判に呼応するかのように、ルーカスらの「均衡景気循環論」が登場することになった。ここでは、市場均衡が「仮定」として想定され、撹乱要因に対する市場の自律作用に対する信頼がある。一方、市場の自律作用に限界があるとの見方もある。つまり、市場を構成する様々な主体の需給情報の調整が、市場の価格(相対価格)情報のみでは不十分であると考える人々である。これが「ケインズ派」もしくは「不均衡派」となるのは言うまでもないだろう。
2.ルーカス批判と計量モデル
ケインズ型の大規模マクロ計量モデルに対する批判としては、「ルーカス批判」があることは周知の通りだ。これは、モデル式の中にある構造方程式のパラメータは政策ルールの変更により変化してしまうために無効であり、理論的根拠がないという批判である。この「ルーカス批判」に対処するため、政策ルールの変化に対しても不変であるような根本的係数(deep parameter)を推定しようという試みが進められたのは自然の流れだろう。そして、現代的な枠組み(DSGEモデル)においても踏襲されている訳である。
ただ、一方で「ルーカス批判」が理論的に正しいとしても、ケインズ型の大規模マクロ計量モデルも少なからず生き残っているというのも実状である。なぜそうなのか?最も大きな要因は、様々な詳細な制度的要因や要素を考慮する際に現状のDSGEモデルに基づくモデル分析は進化途上という現状だろう。他には、政策ルール変更が頻繁には生じないこと、仮にルール変更が生じたとしてもそれを民間が認知し信用する際にはタイムラグも発生するため、従来型の構造方程式のパラメータが緩やかにしか変化しない可能性があること、ミクロ的基礎付けを有するモデルの定式化が現実との対応において好ましいものかどうかといった論点もあり得るだろう。
ケインズ型の大規模計量モデルに対する批判としては、シムズの多変量自己回帰モデルに基づくものもある。これは誘導型に基づくマクロ経済の記述・予測に力を入れるものだが、当時の「合理的期待学派」や「マネタリズム」、「ルーカス批判」とはケインズ派批判の文脈では一致するものの、方法論ははっきりと異なるという点は確認しておくべきだろう。
3.「均衡」学派から見た「不均衡」学派
さて、伊藤隆敏『不均衡の経済分析』(東洋経済)の補論(いわゆる「合理的期待学派」について)の中で最も興味深かったのは、「均衡」学派による「不均衡」の仮定への批判と、バロー・グロスマンの「転向」についての話題である。
ご存知のとおり、バローとグロスマンは、労働、消費財、および貨幣の3財を想定した貨幣経済を前提とした上で不均衡モデルの構築を行っている。このモデルの内容や含意も追々紹介したいところだが、彼らは不均衡派から新しい古典派マクロ経済学へと転向を果たしている。
「転向者」からの不均衡批判は次のようなものだ。バローは「不均衡モデルの十代な問題点は、需要や供給の一致を無視していることにある・・・・・相互に有利な取引機会を機械的に残してしまうことで、不均衡アプローチは政策介入を非常に簡単に正当化してしまう」と述べる。そしてグロスマンは「不均衡分析は予想される取引からの利益(gains from trade)を実現することに失敗しているので最大化仮説に違反している」と言う。更にバローやグロスマンを改宗させたルーカスは、均衡景気循環論の特徴は「描写が経済学的に訳のわからない「不均衡」ではなく、経済学的に理解のできる代替効果に基づいている」と論じる。
こういった改宗者や教祖による「均衡派」からの批判に対する「不均衡派」の伊藤氏の反批判はこうだ。「取引からの利益」は市場の競売人による価格調整の誤りに基づくものであり、最大化仮説に基づく分権的競争市場では外生的に受け取るのは価格情報のみで、潜在的取引相手が欲する需給に関する情報は得られない。たとえ「競売人」が存在して、模索課程の想定をおいたとしても、需給の法則で均衡価格を発見(つまり予想される取引から利益を得尽くす)する機会は限られている。まして「競売人」のいない世界で「取引の利益」を利用しつくす保証はどこにもないのである。そして、「不均衡」の仮定は、競売人の居ない市場で、「取引をしながらの学習」が行われる際には非常にもっともな仮定で、けっして「取引機会を機械的に残す」ものでも「経済的にわけのわからない」ものでもない。
伊藤氏は続けて「むしろ均衡の仮定こそが「取引機会を機械的にとり尽くしてしまう」ということができるのではなかろうか」と続けるが、お読みの方がどう考えるかはその人次第なのかもしれない。但し、「不均衡」を認めることで、市場の価格調整機能に重きをおかなくなれば、新たな地平-無機質な交換媒介ではなく貨幣の持つ魔力そのもの-に一歩足を踏み入れることは確実である。そしてそれこそが、ケインズの問題意識を真に理解することにも繋がるし、かつ現代においても必要な事なのではないかと思うのである。
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