我が国がデフレに陥って早10年が経過した。「失われた20年」とも呼ばれる長期停滞に、このデフレが大きな影響を及ぼしていることは言を待たないだろう。本書は、デフレに最も大きな影響を与える金融政策、日本銀行について論じた書籍である。
まず一読して感じたのは、「デフレ」という現象と「デフレ」に決定的に影響を与える日本銀行について様々な視点から論じられていることだ。
第一章は「日銀理論」について手厳しい批判がなされる。デフレに最も影響を及ぼすのが日本銀行の金融政策であるにも関わらず、現下のデフレに責任が全く無いと主張する総裁、経済危機やデフレに関する当事者意識のなさ、政府によるデフレ宣言以降の迷走、必要以上にバブルを懸念する政策スタンス、イエスマンが横行する組織、といった特徴が指摘される。
この日銀の金融政策は世界からはどのような眼で見られているのか。第二章は日銀の金融政策について、バーナンキ、スティグリッツ、クルーグマンといった世界的な経済学者の処方箋を紹介しつつ批判を加えている。彼らのアドバイスは、インフレは起こすことが可能で、デフレから脱却するにはインフレ期待を起こすことが必要で、インフレ期待を起こすにはインフレ目標にコミットし、その目標が信認されることである。日銀は「インフレ目標」を超えた政策を行っていると自称しているが、未だデフレにある中で何を誇ることが可能なのだろうか。著者の言うとおり疑問は尽きない。第二章とあわせて第六章を読めば理解が深まるだろう。
第三章は歴史からの教訓、つまり昭和恐慌の経済政策を扱っている。1920年代の失われた10年の後に我が国を襲った昭和恐慌は、マイルドなデフレが続くという内的要因が世界大恐慌という外的要因も相まって当時の日本経済を深刻な不況に落としめたという意味で、現代の不況と共通点を持つ。昭和恐慌の経済政策の経験は、デフレ脱却には金融政策が有効で、特に深刻な不況においては財政政策と金融政策のポリシーミックスが有効である、そしてこれらの政策により人々の期待を変えることが必要であるということだろう。更に高橋財政における「政策レジームの転換」の経験は、現代日本において「デフレは構造問題」「資金重要がない中で日銀がいくら資金供給しても無駄」という「日銀理論」から、「デフレは日本銀行の責任で解決する問題」で、「断固としてデフレに立ち向かう」という能動的なレジームへの転換を意味するという指摘は至極真っ当である。そしてこの指摘や経験通りの政策こそが、第二章の経済学者の提言を活かしつつ、今回の金融危機において実際に各国が行ってきたことではないか。
第四章は、日本銀行、失敗の戦後史と題して、日本銀行の戦後史を敷衍している。70年代前半期の狂乱物価の経験と論争はインフレには原油価格の高騰ではなく、マネーの増大が影響することを確認させた。70年代後半からプラザ合意以前の日銀はマネーの伸びを指標として堅実な金融政策を行った金融政策の黄金期であると言えるだろう。この時期は安定成長期と呼ばれるが、プラザ合意以降の円高が日銀に過度な金融緩和を行わせることになる。そして、悪名高い「バブルつぶし」が行われる。当時の日銀の主張は、インフレに対処するための利上げというものだったが、当時のインフレ率は懸念すべき水準で無かったのは明らかだった。そして政策金利の引き下げは小出しになされ、ひいてはデフレ下のゼロ金利政策の突入と、その後の早すぎる解除という形で失敗が続く。
第五章は「構造改革主義」についてである。「構造改革主義」とは、我が国の経済低迷の主因を構造的問題によるものとし、経済停滞の解決を構造改革によって行うことを意図している。著者の言うとおり、自分も構造改革が02年以降の景気回復を成し遂げた訳ではないし、構造改革による潜在成長率上昇という指摘自体が誤りであると考えるためである。潜在成長率自体は政府がコントロールできないため、政策が効果をもたらすという判断は不可能だし、いくつかの実証研究を見る限り、構造改革によって潜在成長率は大きく向上してはいない。将来に関する潜在成長率の高まりの期待が現在の成長を促すという視点もあるだろう。但し当時の小泉政権での成果は十分なものではなかった。
そして、90年代以降常に同じ悩みを政府が抱えているように思うが、財政難の中で反対にさらされつつ、苦労して経済対策を行ったものの、効果は少なく、かつ民衆からバラマキと批判される始末である。なぜ金融政策の重要性に気がつかないのか、疑問に思うところだ。
第七章は「リフレ政策-デフレ不況の処方箋」と題して、包括的に政策メニューが提示された上で、様々な政策について議論がされている。これはリフレ政策について興味をもつ人にとっても(興味を持たない人にとっても)便利かつ有益だろう。勿論、「具体的手段がない」と発言する政策担当者にとっても有用である。著者が最後の箇所で述べるように、我が国の「失われた20年」を脱却するには、政治の力が必要だろう。それは、政策手段の迅速な選択においてもそうだろうし、日銀と政府との適切な強調を達成する上においても、日銀の失敗を認めさせ、断固としてデフレと立ち向かう組織へと変貌させるためにも必要だ。既に20年経った。いい加減もう動いても良いのではないかと本書を読んで感じるのである。
以上が本書を読んで印象に残った点である。さて、本書を読んで次に感じた特徴は、著述のわかりやすさだ。流れるように読めるので短時間で読めてしまうのだが、実はそれぞれの議論の奥は深い。本書を読んで当時色々議論したり考えたりしたことが蘇って良い読書体験をさせて頂いたが、関連して過去の議論が包括的に纏められている点も有用だろう。
以上、簡単に本書で印象に残った箇所にふれながら感想を書いてみた。「デフレ不況」の内実と処方箋について興味を持つ方は是非本書を手にとるべきである。デフレから脱するには、政府の力が必要だし、力を行使することも可能で、それを成さしめるのは民衆の力でもある。
この文言は5年前にも書いたことがある。「不可能だ」と安全な場所からニヒルに構えるのも結構だ。だが、デフレを容認し、政策の失敗を幾多の暴論と妄言で糊塗した挙句に、政策の失敗の結果である長期停滞を容認せよという理屈に本当に納得することができるのだろうか。私には無理である。
「異常」な政策の奥底には、常識や政策の当否で捉えられない人間・組織の行動が介在するものだ。著者があとがきで書いているように、政策の当否のみならず日本銀行を批判することの政治経済学的難しさや民主的な統制の失敗にまでクローズアップせざるをえない現実こそ、問題が深刻化している証左と捉えるべきだろう。
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